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福音(ふくいん)とは、「良き訪れ」という意味です。 「イエス・キリストの救い」が人類にとって どれほど価値あるものかが、語られています。 |
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『人には死んだ先のことは分からない。』と言われています。しかし聖書には、死後の事と、死後 のさばきについて記されています。そこで私たちにとって非常に重要な問題である『死と救い』につ いて考えてみたいのです。 |
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ルカの福音書16章19〜31節 | ||||||||||||||||||||
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さて聖書のなかに、前のページのような記事があります。金持ちと貧乏人ラザロが死に、この 二人を対比して死後の事が記されています。 ふところ なぐさ ここに登場するアブラハムとは、神の懐で安らぎを得ている人で、彼が居た所は、慰めの場所 です。ラザロもそこへ行きました。 一方金持ちは、苦しみの場所におり、地獄の炎の中で苦しみ、もがきながら、生きていたときの 報いを受けていたのです。そして、苦しみの中から遥か彼方にいるアブラハムに叫びました。 「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすよう に、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」 アブラハムは言いました。 「私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れな いし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。」 まつご ここを読む時、日本の習慣にある“末期の水”を思い出します。それは死んだ人の唇を水でぬら すことですが、死んだ人が、喉が渇いて苦しまないように、遺族が“死に水を取る”ことなのです。 しかし、このようなことは、すべての人が地獄に行って苦しむことを前提にしている大変失礼な行 為だと言えます。 しかし、こんな習慣があるのは、人が死ぬと、苦しみの場所に行くかもしれないと感じているか らでしょう。 ついぜんくよう めいふく どっきょう 又、人が死ぬと追善供養といって、冥福を祈るための読経をしますが、お経は、生きている人に 語られるものであり、それが死んだ人のためになる、と言うのは道理にあいません。 では聖書はどう言っているのでしょうか。 死後には、慰めの場所と苦しみの場所があるといい、そこは行き来の出来なくて、死んだ後 では、どうにもならないところであることを先の表句は語っています。 もし、死後の供養によってどうにかなると言うようなものなら、生きている間、何をしても良い事 になってしまいます。 しかし、私たち人間には良心があって、やりたい放題やろうとすることに、ブレーキがかかりま す。それは自分の悪の報いは、自分が受けねばならない、と分かっているからでしょう。ですから、 私たちは、死んでからでも何とかなる、という考えに流されてはいけません。生きている間に、 悪事の償いをしておかなければ死んでからでは遅いのです。 では、自分の力で罪の償いを完全に出来るのでしょうか。 否です。それは不可能に近いでしょう。 なぜなら、私たちの心は、泥の入ったコップの水のようで、普段は澄んでいても、いざ事が起こ ると、沈んでいた泥がかき回され、言ってはならないことを突然言ったり、自分ではしたくないと思っ ている悪でさえ行ったりします。これは、生まれた時から、自分の力ではコントロールできないところ にあり、いくらいけないと分かっていても、無意識にやってしまうのです。ですから、心の中に沈んで いるこの罪に対しては無力だ、と告白せざるをえません。 では、どうすればよいのでしょうか。 聖書は語っています。 『ただ、神の恵みによりキリストイエスによる贖いの故に、価なしに義と認められる。』のだと。 * 贖いとは⇒金品を出して罪をまぬかれること こんな簡単に、私たちの罪が解決するのでしょうか。 それは、神の恵みによって可能です。神は私たちを愛し、私たちの罪の身代わりとしてイエス・ キリストを十字架につけて下さったからです。 それは、私たちを責め立てていた罪の根(沈んでいた泥)から、救うためでした。私たちがこの キリストを信じる時、キリストのなされた贖いの故に、信じたその瞬間に全ての罪から救われ、 赦しを経験するのです。 この事は、神の恵みです。そして私たちも慰めの場所、アブラハムの懐で 安らぎを得られることの保証です。 あなたも生きているうちに罪の解決をして、イエス・キリストの 救いの喜びを是非味わってください。 |
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