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――十字架の聳え建つ教会―― |
いた ところ 古今東西を問わず到る処で我々の目に飛び込んでくる光景である。 いったい教会とはいつ頃できたのでしょうか。 果して、クリスチャンはどんなことを信じているのでしょうか。 今回は、こんな素朴な疑問に迫ってみたいと思います。 紀元60年ごろのある日―― |
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これは、実際にローマ帝国内で起こったクリスチャンの迫害の一場面です。特に紀元64年 に起ったネロ皇帝の時代には、ローマの内外で多数のキリスト者が捕えられ、残忍極まる 方法で殺されました。あるものは十字架刑に処され、あるものは闘技場でライオンにかみつ えじき アスフアルト れて、野獣の餌食となり、ネロの庭園では、柱に縛られ、その体に瀝青を注いで、夜間 ネロの庭園を照らすたいまつ替わりに用いられる程だったのです。 なぜ、こんな恐ろしい迫害がクリススチャンにあったのでしょうか。また、なぜ命を落と してまで信じ続けていったのでしょうか。これは、非常に興味深いところです。 |
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さて、その理由を調べていくと、 キ リ ス ト の 復 活 が その根拠にあったのです。 |
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紀元30年、キリストは十字架の死によって墓に葬られました。しかし三日後には、その墓の 石は取りのけられ墓は空になっていたのです。まさにこれは弟子を始め、ローマ当局の驚き でありました。当然死体は盗まれたものとして捜査されたのです。 ローマの碑文によれば、皇帝は墓から死体が取り去られたという報告に接し、 不快の念を表し、そのようなものには死刑を科すようにした、とある。 よみがえ ところが空の墓は、死体が盗まれたものではなく、甦りの結果であったのです。なぜなら あがな キリスト自らが、「多くの人のために贖いの代価として、自分の命を与え、死んで三日の後 よみがえ に甦る」と預言しておられた如く、死後三日目に民衆や弟子たちの前に顕われたからです。 このことは、キリストを単なる宗教家・道徳の教師と考えていた民衆にとって、その考えを 改めさせられる原因となり、又、弟子たちにとっては、まさにこの復活の目撃によって 『キリストが神の子であり、罪人の身代わりとなって死んで下さった救い主』 か であったことの確信となり、命を懸けて信じる出来事になったのです。 ところが、このキリストの復活に疑問を投げかける人々が多くいます。 しかし、キリストの復活が、弟子たちによるデッチ上げで、ウソの出来事で あったとするなら、今日まで信じる者が起こされ続けることは決してあり得 なかったでしょう。 なぜなら、当時の人々が他の証人を捜し出して、それがウソであると分ったなら、その時代の 茶番劇で終わっていたことでしょうから。しかも、もし真実を語れば命が助かるという時に、 <ウソ>のために正気で死ぬような人は、ひとりもいないでしょう。 ところが、歴史は語っているのです。実際数百万人とも言われるキリスト者が、迫害され つつも本気でキリストの復活を宣べ伝えていったことを。 こうして、キリストの復活が、キリストを救い主、神の御子と信じる根拠となり、クリス チャンが命をかけて信じる理由となったのです。また、復活を信じるクリスチャンたちが、 キリストの復活した日曜日の朝に集まり、罪人のために死んで下さった愛と、恵みを感謝し、 礼拝を持つようになったのが教会の始まりです。 |
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