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――十字架の聳え建つ教会――
 

                いた ところ
古今東西を問わず到る処で我々の目に飛び込んでくる光景である。

いったい教会とはいつ頃できたのでしょうか。
 
果して、クリスチャンはどんなことを信じているのでしょうか。

    
   今回は、こんな素朴な疑問に迫ってみたいと思います。


      
   紀元60年ごろのある日――


ポリオ少年は言った。                    
        おっしゃ
「あなた方の仰ることは、私の救い主の言われる、もっと大切なお言葉に比べたら、

ちっとも私の心を動かしません。」

「せっかちな物分りの悪い子供だな。それじゃもう少し効き目のあることを教えてやろう。
              ぎゃくさつ
 皇帝の怒りは、虐殺の血と火あぶりの刑だぞ。」

「いいえ、それよりも恐ろしいものは小羊の怒りです。」

「わけのわからんことを言う奴だ。何だ、その小羊の怒りというのは? 

 おまえは自分に降りかかる運命が見えんのか?」

「わたしの仲間や友人達は、すでにあなた方が負わした迫害のすべてに耐えて来たんです。

 わたしも同様の我慢が出来ると信じています。」

「闘技場の恐怖に我慢が出来るとでも言うのか。」

「わたしの信じている方は、決してわたしをお見捨てになりません。」

「ライオンや虎がお前に飛びかかって来るのだぞ。」

「ハイ。わたしの罪のために死んで下さった方を堅く信じていますから。」

「火で焼かれることを考えてみたか? お前は火あぶりの炎に耐えられるのか?」

「ハイ。もし耐えねばならないのなら尻込みはしません。苦しみの時は間もなく過ぎて、
 
 わたしは永久に主と共にいることになるのですから。」
 
  これは、実際にローマ帝国内で起こったクリスチャンの迫害の一場面です。特に紀元64年  

に起ったネロ皇帝の時代には、ローマの内外で多数のキリスト者が捕えられ、残忍極まる

方法で殺されました。あるものは十字架刑に処され、あるものは闘技場でライオンにかみつ
         
えじき                                             アスフアルト
れて、野獣の餌食となり、ネロの庭園では、柱に縛られ、その体に瀝青を注いで、夜間

ネロの庭園を照らすたいまつ替わりに用いられる程だったのです。

 なぜ、こんな恐ろしい迫害がクリススチャンにあったのでしょうか。また、なぜ命を落と

してまで信じ続けていったのでしょうか。これは、非常に興味深いところです。

 さて、その理由を調べていくと、                                                        
   
  キ リ ス ト の 復 活 が その根拠にあったのです。               

 紀元30年、キリストは十字架の死によって墓に葬られました。しかし三日後には、その墓の

石は取りのけられ墓は空になっていたのです。まさにこれは弟子を始め、ローマ当局の驚き

でありました。当然死体は盗まれたものとして捜査されたのです。


   ローマの碑文によれば、皇帝は墓から死体が取り去られたという報告に接し、
  
   不快の念を表し、そのようなものには死刑を科すようにした、とある。

                                                                  よみがえ
 ところが空の墓は、死体が盗まれたものではなく、甦りの結果であったのです。なぜなら
                   
あがな
キリスト自らが、「多くの人のために贖いの代価として、自分の命を与え、死んで三日の後
 
よみがえ
に甦る」と預言しておられた如く、死後三日目に民衆や弟子たちの前に顕われたからです。

 このことは、キリストを単なる宗教家・道徳の教師と考えていた民衆にとって、その考えを

改めさせられる原因となり、又、弟子たちにとっては、まさにこの復活の目撃によって

『キリストが神の子であり、罪人の身代わりとなって死んで下さった救い主』      
 
                                  か
であったことの確信となり、命を懸けて信じる出来事になったのです。
         
ところが、このキリストの復活に疑問を投げかける人々が多くいます。

しかし、キリストの復活が、弟子たちによるデッチ上げで、ウソの出来事で

あったとするなら、今日まで信じる者が起こされ続けることは決してあり得

なかったでしょう。

 なぜなら、当時の人々が他の証人を捜し出して、それがウソであると分ったなら、その時代の

茶番劇で終わっていたことでしょうから。しかも、もし真実を語れば命が助かるという時に、

<ウソ>のために正気で死ぬような人は、ひとりもいないでしょう。

 ところが、歴史は語っているのです。実際数百万人とも言われるキリスト者が、迫害され

つつも本気でキリストの復活を宣べ伝えていったことを。


 こうして、キリストの復活が、キリストを救い主、神の御子と信じる根拠となり、クリス

チャンが命をかけて信じる理由となったのです。また、復活を信じるクリスチャンたちが、

キリストの復活した日曜日の朝に集まり、罪人のために死んで下さった愛と、恵みを感謝し、

礼拝を持つようになったのが教会の始まりです。
 
  ここに教会の誕生と起源があるのです。
    
 このようにキリストの復活が歴史上の出来事であるとすれば、

私たちには、二つの選択があります。

 一つは、神の御子の救いを信じて救われるか、あるいは無視して、自らの罪の

故に、神の裁きを受けるかです。 『あなたは、どちらを選択なさいますか。』


あなたも歴史の語るところに耳を傾けて下さり、信じて救われるものと

なって下さい。



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