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                      さ い む
                            
罪の債務は支払われた

 私の子供の頃の体験である。小学校一年生になったばかりの私にとって、

それはそれは怖い体験であった。



 いつもクラスのやんちゃ者であったT君は、担任の先生から憎しみを買っているかのよう

に叱られていた。その叱られ方は、異常なヒステリックとしか言いようのない程で、いや

がるT君をムリやり席から引きずり出し、泣きながら抵抗しているT君を、さらに廊下に

引っぱり出し、何時間もバケツを持たせ、お仕置きをするのであった。私達はそんな担任

に、「安藤ちょうちんプーラブラ。お前の母さん出ベソ、電車に曳かれてペッチャンコ」

と、陰口をたたいていた。


 ある日、私は、工作の時間に使う粘土を忘れた事に気づき、恐怖の冷水が背中をよぎるの

を覚えた。「あー、どうしよう。恐ろしいお仕置きが自分にも。」と思った瞬間、お漏らし

を体験した。「そうだ。怒られる前に、お兄ちゃんに謝ってもらおう。」 兄は、その先生

からは、ひいき者であったので、兄に執り成しをすがった。

 三時限目の鐘の音と共に、非常な緊張感の高まりを覚えつつ、授業が始まった。私は、

途端に「もうだめだ。」と感じた。先生が真直ぐ自分の方にやってくる。

「ハイ、これを使いなさい。」

エッ!と びっくりすると共に、安堵感が全身の緊張の糸をほぐした。兄が執り成しに行っ

てくれていたのだなーと、どんなに嬉しかったことか。40年経った今でも忘れられない体験

の一つになっている。

                                                                                               
  さて、聖書には、このように記されている。    

 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。

だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、

私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安を

もたらし彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分かってな道に向かって

行った。

しかし、主は私たちの全て
の咎を彼に負わせた。

イエス・キリストが、十字架につけられたとき、人々はキリストをあざけりました。

「神の子なら自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」

「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王なら、今十字架から降りてもら

おうか。そうしたら我々は信じるから。」と、からかい、ののしりました。

 しかし、十二軍団よりも、はるかに多くの御使いを配下に置いて、一瞬のうちに傲慢な

人間を滅ぼすことのできたキリストは「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしている

のか自分でわからないのです。」と十字架の上から祈られたのです。


 このキリストの打ち傷は、まさに私たちがいやされるためだったのです。キリストは、

すべての人の贖いの代価としてご自身をお与えになりました。それは、私たちの罪、犯ち

を神に、執り成すため、受けられた苦しみだったのです。
                                     
                                                        
  さて、40年前の私は、工作の粘土を忘れ、その報いとしてムリヤリ、引きずり出され、

廊下に引っぱり出される運命にありました。忘れ物の報いが待っていたのです。

 それと同じように、すべての人間は、死後、神の前に引っぱり出され、自分の犯した罪の

報いを受ける運命にあります。ところが多くの人々は、自分に罪の報いがあるなどとは、

考えてもいません。しかもキリストが自分の罪の執り成しのために死んだなどとは、バカ

バカしい他人事と思っています。

 しかし、そうでしょうか?

 町中をすまして歩いている自分は、何を考え、何を思って歩いているのでしょう。あなた

は自分の心を写し出すテレビ画面を額につけて、町中を歩くことができますか?そのテレビ

画面には、嫌らしい思いを持った自分が映し出されるのです。あなたは、自分の心を人前に

さらけ出して歩くことができるでしょうか。いいえ、恥ずかしくて、人に見せれるものじゃ

ありません。ですから、自分には、罪がないとは、決して言えないのです。

 ならば私たちも、罪の報いから逃れられるわけがありません。必ず、罪の清算がされて、

地獄の裁きを受けるのです。もはや、自分の努力では、何ともなりません。自分でしたいと

思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行ってしまいますから。

                しかし、ここに福音があります。
                            
 私には、兄が事前に職員室に行って、謝ってくれました。だから、私は裁きのときに赦さ

れたのです。

 同じように、私たちにはキリストの執り成しがあるのです。キリストは、私たちの罪を

執り成すために十字架にかかって死んで下さったのです。そして、私たちの罪の借金を全部

払って下さいました。だからキリストの贖いの故に、全ての人が救われるのです。

『あなたがたは罪によって死んだ者であったのに、神はそのようなあなた方をキリストと
                                                  さいむしょうしょ
共に生かして下さいました。それは私たちを責め立てている債務証書を無効にされたから

です。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。』と。

 ですから、こんな罪人でも、ありのままで救われるのです。
                 さいむしょうしょ
「キリストは、私たちを責め立てている債務証書を無効にして下さいました。」

あなたの罪の債務が、キリストによって払われているのです。どうか、この事実を信じて、

罪の裁きから救われるものとなって下さい。




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