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    昔ながらの素朴な疑問

現役住職の一石から現役住職の一石から・・
 
 中日新聞より

  
1999年10月15日・夕刊




戒名たるものが一体何なのか。

死んで名がつけられるのは

どういう意味か。

全く知らされずに、高額な

お金を出して、疑問を感じ

つつも習慣として受け入れて

しまっている。




 10月15日の中日新聞の

記事を機会に、仏式葬儀の

タブーに触れてみたい。







そもそも戒名とは・・・

  戒律の名という意味で、仏陀の教えた戒律を守った証拠として僧侶からもらった法号です。
                            ほうみょう
                     (浄土真宗では「法名」ともいいます
)


              さんじゅじょう  ご     さい    ぜん    じゅうきん      きょう
 この仏陀の教えた戒律には、
三聚浄戒、五戒、八斉戒、十善戒、十重禁戒、四十八軽戒

などがあります。
 一例に十善戒をあげてみると、

          ふせっしょう
       一、不殺生戒・・殺生をしないこと
          ふちゆうとう
       二、不愉盗戒・・盗まないこと
          ふじゃいん         かんいん
       三、不邪淫戒・・不義・姦淫をしないこと
        ふもうご   うそ
     四、不妄語戒・・嘘を言わないこと

            ふきご
       五、不綺語戒・・飾らないこと
           ふあくく
       六、不悪口戒・・悪口を言わないこと
          ふりょうぜつ
       七、不両舌戒・・二枚舌を使わないこと
       ふどんよく
       八、不貪欲戒・・欲深くならないこと
          ふしんい
       九、不瞋恚戒・・怒らないこと
          ふじゃけん     じゃどう
       十、不邪見戒・・邪道にならないこと


 その昔、真剣まじめな仏教徒が、こうした仏陀の諸戒を守る
  しょうじん
ことに精進しました。ことに商人や農家の者たちなど、商売や
                      しゅぎょう
仕事に追われながらでは、十分な修業ができないので、一年の

ある時期を選んで3日〜7日間位いの毎日、寺参り、又は寺ごも

りして戒律を守りました。それが終ると住職から、この者は戒律
                           こし
を守り実行した者であるという証しとして、戒名を「鳥の子紙」
                                 ふたもじ
にしたためて、紙包みにし、その上に「戒名」の二字を書いて

もらい、喜んで家に帰ったものです。
                         もら
こうして、生前に修業に励んで、貰った戒名を、大切に保存し

ておいたのですが、本人が死ぬと紙が次第に古くなるので、遺族
                            いはい
がそれを板に書き換えました。これが位牌です。
       
   いはい                          きえ
  ですから位牌に書いてある文字は、本人が仏法に帰依し、

戒律を守ったという精進の証しであり、そこに戒名の意義がある
                 とく
のです。そして本人の徳が、しのばれるのです。



  しかし戒律を守らない者に、戒名は何の意味もなく、仏の「ほ」の字も知らず、生まれて一度も

寺参りをしたこともなく、仏法を教え聞かされたこともない者に、死にさえすれば、お寺がこれに

戒名をつけるというのは、仏法ではあり得ないことなのです。まして、女狂いや酒乱で一生を過ご

し人身売買や、鬼のように人を食い物にした人間でも死ねば「この者は仏陀の戒律を守った者で

ある」と、ありがたい戒名をつけてくれるのですから結構なご時世だと思います。

そして仏陀の戒律も今日では金で取り引きする商品と化してしまっているわけです。

                 じごく  ごくらく
 このように、地獄、極楽も金しだいということでは、

             貧乏人や善人は浮かばれません。
   いはい
  位牌は今日では、戒名ではなく、

            「死名」であり「金名」なのです。

           

もし、死ぬことが、悟りを開くことで「ほとけ」になることなら、現世の修業は無駄であり、
                                   くうきょ
お金で立派な戒名がいただけるなら、仏陀の説法は空虚なものになってしまいます。

                                   

           戒名で立派な名は
                   こじ   だいし
        「院」「居士」「大姉」であり、
            もん   しんじ    に   しんにょ
        普通は「門」「信士」「尼」「信女」
            どうじ   どうじょ
        子供は「童子」「童女」などです。
           ちなみ     こじ
            因に、「居士」とは、出家僧侶ではないが、仕事を持ちながらも

       仏法に帰依して、熱心に仏法を人に説いて回る平信徒布教者ともいうべき

       真剣・熱心な仏教徒のことを表す尊名なのです。






                    いはい         こじん    やど
 しかしながら、日本人が位牌には、先祖や故人の霊が宿っていると
                 ばくぜん
いう、根深い信仰または漢然とした感情を強く抱いていることは

事実であり、日本人にとって位牌は、先祖そのもの、愛する故人

そのものでさえあるのです。しかし今日、戒名(位牌)そのものに

疑問を感じ、その本来の意味を失った時、故人の生きたしるしを

違ったものに換えてもいいのではないでしょうか。


何か故人の本名を記したものとか、故人の特徴を表わす遺品を

生きた証しとしてもいいのではないでしょうか。

 
例えば、キリスト教では、墓碑に故人の名をそのまま記します。そして、故人を覚え、先祖を

大切にします。しかし先祖に礼拝を捧げることは致しません。何故なら「先祖」とは「家を始めた

人」であり、「家を始めた人」とは、私たちの「生命をはじめた人」です。その「生命をはじめた

方」とはご先祖さまではなく、真実に人類の生命をはじめられた創造主なる神様
だからです。


 ですから、クリスチャンの場合は人を拝むのではなく、人に命を与えたお方に感謝と礼拝を

致します。それはちょうど、私たちが椅子を勧められた時、「ありがとうございます」とお礼を

言いますが、それは椅子に向って言うことはしません。提供して下さったご主人に向って感謝を

捧げます。同じように、人間に向って礼拝するのではなく、人間に命を与えて下さった命の主に

向って感謝するのが筋だと思いますから。


 ですから、私たちの本当の先祖崇拝は創造主礼拝によってのみ満たされるもので、人間の作った

位牌に頼ることはないのです。位牌は礼拝の対象ではなく、故人の生きた証しとして保存するだけ

です。ましてや、あの位牌の中に先祖や故人の霊が宿っているなどとは、とんでもない迷信だと

いうことがわかります。
こういうわけで、故人の霊が宿るという位牌に何百万も出して作る必要は

ないものです。

 私たちは、道理に合った正しい先祖への感謝と正しい葬りに目覚め、昔ながらの素朴な疑問に

納得のいく答えを発見していきましょう。








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