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          創造主の御翼の許に   


・・何者のおわしますかは知らねども

かたじけなさに涙こぼるる・・・

私たちの回りを見ると、星・太陽・自然の素晴らしさに感動し、つい手を合わせて拝みたく

なってしまいます。

  しかし、聖書には、

     「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、

    手でこしらえた宮などにはお住みになりません。又何かに不自由なことでもあるかの

    ように、人の手によって仕えられる必要はありません。

    神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」


                 とあります。

                      さいせん
  よく私たちは神社に行くと、賽銭を投げて願い事をしたり、収穫した作物や、いろいろな供え物

などを持って出かけていきますが、創造主が人間のささげたものを食べられるわけでもなく、何か

不自由をしておられるわけでもないはずです。なのに、何かしないと気がすみません。

  しかし、よく考えてみると、創造主が人間に住まいを造ってもらわなければ生きてはいけない

とか、人間に助けてもらわないと食っていけないというのでもないはずです。

 なのに、どうして創造主が人間に援助されなければならないのでしょう。

 ここで一つ考えてみたいと思います。

   私たちが真に拝むべきものは何んでしょうか。

               いす
 もし私たちが椅子を勧められたら、「ありがとうございます」とお礼を言いますが、それは椅子

に向かって言うのでしょうか。
いいえ違います。提供して下さった方に言います。

同じようなことが、太陽にも言えます。朝日に向かって手を合わせ、ありがとうございますと言う

のではなく、太陽を提供してくださった万物の創造主に向って言うのが筋でしよう。

 だから私たちが拝むのは、物に向かって手を合わせるのではなく、万物を提供して下さった

いのちの創造主に向かって感謝すべきでしょう。





 



 
 
 それはまた、宇宙の秩序をみても分かります。
              めちゃくちゃ
もし偶然の産物なら滅茶苦茶な動きをするでしょう。

しかし秩序があるということは、宇宙を造った創造者がいると

いうことです。万有引力を発見したニュートンや、地動説を唱え

たガリレオ・ケプラー・コペルニクス・ファラデー・マックス

ウェル・パスツール・リンネ・ファーブル・パスカル・ボイル・

フレミング等の名だたる多くの科学者はみな創造者なる神を

信じていました。彼らは「創造主が造られたものには秩序がある

はず。だからその法則を探求しよう」と考えたのです。

「もし偶然による産物なら、秩序正しい法則などあり得ない」と

思ったからです。

 このように天地万物の創造主なる神は、人間に助けられる必要もないし、


人間の手で造られた宮に住む必要もないのです。

 創造主は人間の遥か上の存在で、万物を秩序をもって造られました。

だから神を人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じ物と

考えてはいけないのです。

 又、創造主は、全知全能で、英知に富み、私たちを愛して下さっている

方なのです。
                          しもん                        じゅっぱひとから
その証拠に、人間はみな異なった指の指紋を持っています。創造主は私たちを十把一絡げで、

「人間ならみな同じ」というように造られたのではなく、「全世界でたった一人の私でしかあり

得ない」ように造られたのです。
偶然の産物なら同じようなものが一杯できます。

 しかし生まれてくる人間はみな区別がつきます。どうしてでしょうか?

 それは、私という人格に価値を置いて下さった方が私を生かして下さったからです。そして、

その方は私に目を留めて下さり、どのように生きるかを見ておられるのです。そこに創造主の愛の

御心があるのです。

 この世の中では、虫けらのように扱われる人間でさえ、創造主の目には愛の対称なのです。

会杜では、「私はこの仕事のためになくてはならない存在だ」と思ってやっていても、いざ病気に

なると、会社は別の人を雇います。「自分にしかできない仕事だ」と自負して会杜に尽くしてきた

のに、いとも簡単に変えられてしまうのです。




 でも私たちを造って下さった方は、そうではありません。一人一人を別々な

能力を与えて造っておられるので、一人々々に個性があり、顔も違い、指紋も

違うのです。そのお方が、私を私として見て下さり、私の心の悩みも、苦しみ

も、心の中の真意もみな知っていて下さるのです。

 そして、「お前のことは私が知っている、お前はお前でなくてはいけない。」

といって、創造主は私に目を留めていてくださるのです。

 その創造主は、私たちが罪の中に滅んでいくことを悲しまれ、私たちの身代わりになって罪の
つぐな
償いをする方をお立てになったのです。その方がイエス・キリストです。

ですから、「どんな人でも、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるの

です。神はイエス・キリストによって平和を宣べ伝え、私たちに、キリストの御名によって罪の
ゆる
赦しを受けられる者」として下さるのです。


 
 
神は言われます。
      ちの
「女が自分の乳飲み子を忘れようか・・・たとい、女たちが忘れても、
                             
このわたしはあなたを忘れない。見よわたしは手のひらにあなたを刻んだ。」と。

                                                     おさ
 私たちの創造主とは、このようなお方です。決して人間の造った薄暗い宮に納まる方ではなく、

また人間に助けてもらわなければ不自由する方でもありません。真の神は天地万物の創造主で、

私たち一人一人に目を留めて下さっている方なのです。この創造主なくして私という命の存在は

なかったのです。
          みつばさ もと
 この創造主の御翼の許に、帰ろうではありませんか。

       命の主の永遠に変わらない愛の中に抱かれるために。




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