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2026年9月6日

『罪人の自覚をはっきりと持ち、
自分の義を表すのではなく、
全能主の義が表される福音宣教を進めていく
』

マタイの福音書 3:13~17 


(起) マタイ3章13~17節の記事から、「自分こそが罪人です」という自覚をはっきりと持ち、

『自分の義を表すのではなく、全能主の義が表される福音宣教』を進めていく事を学んで行きたいと

思います。


 
その前にまず、創造主の存在を「瞬(まばた)きの仕組み」を通して見て行きます。私達は普段、意識せずに瞬(まばた)きを

しています。
この瞬(まばた)きには角膜を守り、潤(うるお)し、物を見るための重要な役割があります。角膜とは、

レンズの表面にある光を通す透明な膜の部分です。この角膜が傷ついたり、表面が乾燥したりすると光が

乱反射して、澄んだ状態で光を取り込めなくなり、視界がぼやけたり、目の違和感が生じたりします。

そこで重要なのが、「涙」と「瞬(まばた)き」です。涙は単なる水ではなく、タンパク質や脂質、電解質などを

含んでいます。
角膜には血管がないため、「涙」は角膜に必要な酸素や栄養を届ける役割も果たしています。

そして、「瞬き」は目の「ワイパー」のような働きをします。瞼(まぶた)を閉じる事で、涙が角膜全体に広がり、

表面を潤して滑らかにするとともに、埃(ほこり)などの異物を取り除きます。さらに、
涙の膜が均一になる事で

光も綺麗に取り込む事ができるのです。
このように、普段何気(なにげ)なく行っている瞬(またた)きも、角膜(かくまく)・涙(なみだ)・瞼(まぶた)が

共に連携して、精密かつ精巧な働きをしています。こうして、私達が当たり前のように物を見る事が出来る

のは、このような仕組みが最初から組み込まれており、正しく働いているからです。それは、偶然に

出来上がった物ではありません。人知を遙(はる)かに超えた御方が、全ての条件を考え尽くして創造されている

ことを窺(うかが)い知るのです。すなわち、人体の一つ々々の器官の中に創造主の叡智(えいち)と配慮(はいりょ)を知り得(う)るのです。

そして、その智慧(ちえ)ある仕組みこそ、聖書が示す「全能主ヤハウェ」の存在の証しなのです。(ロマ1:20)


(承)さて、聖書は、この人知を遙(はる)かに超えた全能なる御方が、「罪ある人間を救うために、イエス・

キリストを遣わされた」
と伝えています。では、そのイエス・キリストの歩みについて、マタイの福音書

3章から見て行きます。イエス様がバプテスマのヨハネの所に来た時、ヨハネは「私こそが、あなたによって

バプテスマを授けられる必要のある者です。それなのに、あなたが私の所においでになるのですか」(3:14)

と言いました。何故ヨハネはこの時点でイエス様が全能主の御子だと分かったのでしょうか。ヨハネの福音

書を見ると、「ヨハネは全能主から『ある人の上に御霊が下って留まるのを見たら、その方こそが、聖霊に

よってバプテスマを授ける方である』と予め宣言されていました。それを実際にヨハネが見たので、イエス

様が全能主の御子であると分かった」(1:31~34)と記しています。しかし、このマタイの福音書の

場面は、まだバプテスマを受ける前ですから、本来は分からない筈ですが、恐らくヨハネは御霊によって

示され、霊的な直感によって、イエス様をメシアとして受け留めたのでしょう。そして、「自分の方があなた

から悔い改めのバプテスマを受けなくてはならない者です」
と言ったのです。即ち、ヨハネは人々に悔い

改めを説き、バプテスマを授けていましたが、「自分こそが本当に罪深い者だ」と自覚していたという事

です。
それは、イエス様も同じです。イエス様は全能主の子であり、罪は犯されませんでしたが、マリヤの

肉を担(にな)ってこの地上に来られました。ですから、罪ある人間の肉を担(にな)った者として、「今は、全ての

正しい事を成就するのは、自分にとってふさわしいことなのです」
と言われて、ヨハネから「悔い改めの

バプテスマを受ける事がふさわしい」と自覚しておられたのです。


(転)そうであるならば、「私たちこそが、悔い改めのバプテスマを受けるべき、罪人です」という自覚を

はっきりと持っていなければなりません。そして、どこまでも幼子のように自分を低くし、へりくだって

行くべきです。マタイ4章12節を見ますと、「イエスはヨハネが捕えられたと聞いてガリラヤへ退かれ、

公に宣教を開始された」
とあります。即ち、バプテスマのヨハネの働きが終わって彼が退いた時、イエス様の

働きが始まったのです。同じように、「罪人である私達が退いた時、初めてイエス様、全能主が働かれるの

です。」
福音宣教とは、自分の正しさを人に証しする事ではありません。伝道する際に多くのクリスチャンが

陥る失敗は、「信じた事によって自分はこんな風に変えられた」と言って、信じた者としての正しさを証し

しようとする事です。これは大間違いです。
むしろ、福音宣教の時には、罪人である自分を自覚し、「心を

入れ替えた幼子のように自分を退け」、イエス様だけを意識して、純粋にキリスト(メシヤ)の福音を語る

べきなのです。


(結)こういうわけで、自分の義を人に表して行く事が福音宣教ではありません。私達は魔物を

抱えた罪人ですから、義は無いのです。そして、罪人である私達はもう死んだのです。ですから、

どこまでも自分が退いた時に、全能主が働かれるのです。
私たちは、自分の我を引き、イエス様が

未信者の心を変えて下さるように、お伝えして行くのです。それが、イエス様のお心が表されて行く

本物の福音宣教です。どうか、「自分は罪人で、死んだ者だ」という自覚をはっきりと持ち、自分の

義を表すのではなく、イエス様の義が表される福音宣教の働きをさせて頂こうではありませんか。


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