2026年8月30日
『主のお役に立ちたいという一心で、 残りの生涯を主の為に使い尽くして行く事』
ヨハネの福音書 20:1~10
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(起) ヨハネ20章から「主のお役に立ちたいという一心で、残りの生涯を主のために使い尽くして
行く事」を学んで行きたいと思います。
その前にまず、聖書が正しいという事を「氷河時代の存在」に注目して、紐解いて行きます。氷河
時代があった事は、アメリカのヨセミテ渓谷など、世界各地の地形が雄弁に物語っています。その事を
示している代表的な地形は次の通りです。①「ホルン」と言われる鋭く尖った峰、②「カール」と言われる
スプーンで抉られたような丸く窪んだ地形、③広く丸い「U字の谷」、④平原に取り残された
「迷子石」など、これらの地形は、雪が氷河となって数百メートルの高さまで押し固まり、超重量に成長した
「氷河」によって削り取られた渓谷の姿です。では、氷河その物は、どのようにして生み出されたので
しょうか。一般に氷河は寒冷化によって出来たと思われていますが、そうではなく、「冷たい大気による
大雪」と「温かい海での大量の水蒸気」という、相反する条件が同時に起こる事で生み出されます。この
難題を解決する出来事が、聖書には記されています。それが、「ノアの箱舟」と「ペレグの時代の大地の
分裂」です。「ノアの箱舟」では全地を水が覆い、100年後のペレグが生まれた時代に大陸が移動しま
した。このノアの大激変によって起こると容易に想像されるのが、火山の噴火です。海中火山も含め、
多くの火山が活発になったと考えられます。火山の噴煙には1000分の1mmのエアロゾルが存在し、
これが成層圏にとどまる事で太陽光が遮断され、大気を冷やします。また、逆に海中火山の噴火により、
海が暖まります。これらによって、「暖かい海からの湿った空気」が「冷え切った大地」の上で急速に冷され、
数百年間にわたって猛烈な大雪となって氷河となったのです。では、氷河時代の描写は聖書にはあるので
しょうか。それは、ヨブ記にあります。ヨブ記には他の書簡を圧倒して「雪」「氷」「霜」「寒さ」といった
言葉が記されています。「全能主の息によって氷が張り、広い水が凍りつく」(ヨブ記37:10)という
描写は、当時の寒冷な気候を目の当たりにした「目撃証言」そのものです。ヨブが住んでいた土地は聖書の
記述から、現在は乾燥地帯である死海の南方である事が分かります。そのような場所で「雪」「氷」という
描写が出るのですから、当時が氷河時代の真っただ中にあり、豊かな水に恵まれた気候であった事が分かり
ます。これらの事から、氷河時代の成り立ちも年代も、聖書から読み解く事ができ、聖書は正しい事が、
科学的なデータや地形の証拠によって指し示されているのです。ですから、私達は、「聖書は正しい、全能
主は正しい、イエス様は正しい」という信仰を、自信を持って確信していいのです。
(承)しかしながら、人間には、自分の目で見たことや、頭の知恵で感じ取ったものだけに頼ろうとする
傾向があります。その事から、進化論的な考えに基づく氷河時代のとてつもない仮定年代が生まれて来るの
です。こういう見方は、現在の状態から見て、過去の出来事を判断しようとする方法から出て来ます。この
方法は、いつも、人間の知恵で感じ取ったものだけに頼ろうとする肉の方法です。それは、聖書の記述の
中にもあります。ヨハネ福音書では、イエス様が復活に関して「わたしは祭司長や律法学者たちに殺され、
三日目に甦ります」と、弟子達には何度も説いていたにも拘わらず、空になった墓を見ても彼らは悟る
事ができませんでした。結局、彼らは復活されたイエス様と出会い、釘の跡と槍で刺された跡を見せて
もらう事で、ようやくイエス様の復活を受け入れることが出来たのです。このように、目に見えるものや
頭の理解だけに頼る姿勢は、人間の大きな傲慢です。そもそも、私達の存在そのものが、目で見えるものや
頭で理解できるものだけで成り立っている訳ではありません。例えば、「私達の考える能力・知性・感情」や
「霊魂」などは、目に見えませんが確かに存在するものです。それを目に見えないからといって否定する人が
いるでしょうか。それらは私達が、自分で造った訳でもありませんし、また親が造った訳でもありません。
しかし、人間は、目で見えない物を持っているのです。こんな事実を知ったなら、私達に命を与えて下さった
お方がおられることを認めない訳にはいきません。その御方は、私達の知恵を遥かに超えた、全能なお方で
ある事は推して知るべきです。(考えてみれば直ぐ分かる。簡単に推測できる事柄です。)ですから、
全てが、地上的な理解で物事を判断しようとする事は間違っています。私達は、現在の目に見える状態から
だけで判断するのではなく、聖書の全能主のことばからも、判断して行くべきです。過去の出来事を全て
現在の目から知ろうとする事は、人間の性急過ぎる傲慢な姿勢としか言えません。
(転)ところが、聖書の中に出て来るマグダラのマリヤは、その真理の一端を理解していました。それは、
マリヤには、弟子達とは違い、イエス様を目に見える部分でのみ、理解しようとするのではなく、イエス様の
「ことば」という目に見えない部分で判断しようとする心を持っていたのです。即ち、彼女は目で見える事
だけを信じようとする心から、自分の霊的な心で判断しようとする遜った姿勢に転換したのです。
彼女は、本来なら、姦淫の女として一生涯嫌われても仕方ない女性でした。しかし、イエス様は彼女の
罪深い過去を一切問われませんでした。この事を通して、マリヤは直感的に「私のような罪人を受け入れて
下さるこの御方は、目に見えるものだけで判断される御方ではない。人間の常識を遥かに越えた領域の中で
私を見て下さる御方だ」と感じ取っていたのです。ですから、彼女は、人にどう思われようが、イエス様の
言われた「ことば」を信じて、ひたすら主の甦りを信じる一心で墓の傍らに佇んでいたのです。
(結)私達は、地上の肉の世界観と、霊的な世界観を調和させて考えようとしてはいけません。何故なら、
私たちの信じる全能主は、天におられる霊的な御方だからです。私達にとっては、この世は十字架によって
死んだものであり、また私たち自身も十字架に付けられて死んだものです。ですから、私たちは世のもの
ではありません。故に、キリストによって霊の世界観で生きていくのです。その霊の世界観の中で、「新しく
生きて行っていい」と言われたのですから、そのように言って下さった全能主をどこまでも信頼し、「全能主
の国と全能主の義をまず第一に」、追い求めて行くのです。そして、積極的に、主の役に立つ信仰者になる
のです。私達の教会には、全能主が下さった使命があります。その中で、自分はどういう役割を果たして
行けば良いのか、積極的に求めて行くべきです。そこに焦点を合わせて行けば、長い間自分自身を取り
巻いていた肉の影響力も少しずつ取り除かれて行きます。自分が弱いとか、能力が無いとか、過去はどう
だったとか、そんな事を考える必要はありません。そこに目を向けさせるのは悪魔の常套手段です。悪魔に
脅されて自分の使命を見失ってしまってはいけません。たとえ悪魔が来ても、彼らの運命は滅びと決まって
いますから、強気で退けて行けばいいのです。マグダラのマリヤのように、ただ「主のお役に立ちたい」
という一心で、残りの命を主のために使い尽くす信仰を働かせて行きましょう。
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