2026年8月23日
『まことのぶどうの木であるイエス様に繋がり続け、 主が喜ばれる実を結ぶために、命を懸けて行く事』
ヨハネの福音書 15:1~10
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(起) ヨハネ15章から「まことのぶどうの木であるイエス様に繋がり続け、主が喜ばれる実を結ぶ
ために、命を懸けて行く事」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、イエス様は「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。・・・あなた方はその枝
です」(15:1,5)と言われました。イエス様が、父としっかりと結びついて共に歩まれました。同じ
ように、私達もイエス様にしっかりと結び付いて共に歩むべきです。枝が幹から離れてしまえば、枯れて
取り除かれますが、しっかりと繋がっていれば、栄養を受け、決して折れる事はなく、豊かな実を結びます。
また、農夫である全能主は、もっと豊かな実を結ばせるために、不要な枝を刈り込まれます。それが、たとえ
幹に繋がっている枝でも、不要な枝は刈り取り、豊かな実を結ばせます。同じように、私達も肉の不要な
枝は切り取って頂き、主の喜ばれる霊の実を豊かに結んで行くのです。その為には、しっかりと、イエス様
の考えに従って行動を取ることが、大前提です。それを、自分勝手な肉の自我に従って歩むならば、主から
の栄養を失って枝は枯れ、ただ折られて火に投げ込まれてしまうのです。私達は、まず全能主の国と全能主
の義を追い求め、益々実を結ぶ枝として全能主が喜ばれる実を結ばなければなりません。それが救われた者
の喜びです。即ち、救われた者はひとえに全能主の栄光のため、全能主が喜んで下さる事のために心を
使って行くのです。これが救われたクリスチャンの自然な姿です。
(転)しかしながら、私達は地上に生きているが故に、世とのしがらみで板挟みになってしまう事があり
ます。そのような、世の常識やしがらみに心を奪われてしまうと、結局は世の人間と同じ感情に立ち、
イエス様との繋がりが切れてしまうのです。それでは元も子もありません。ですから、私達は自分の信仰を
犠牲にしてまで世に合わせて行く必要はありません。聖書に「死人は死人に葬らせなさい。あなたは私に
従ってきなさい」とあります。自分の親の葬儀に出ずに、イエス様に従って行けば「非常識、親不孝者」と
言われるかもしれません。しかし、全能主はそこまでした者の信仰を覚えておられるので、その後のことは
全能主に委ねれば良いのです。これに勝る信仰の忠実を現すものはありません。ですから、今は「親不孝者」
と思われても、まず、全能主に従う道を選択するのです。しかし、他方では、聖書には「自分の親族や自分の
家族を顧みない場合には、主を信じ仰ぐ心を捨てているのであって、不信者以上に悪いのです」(第Ⅰテモテ
5:8)とも書かれています。この二面性があるのも事実です。ですから、私達は自分の信仰を犠牲にしない
限りは、親に従い親を尊ぶべきです。しかし、一番大切な事は、全能主の国と全能主の義をまず第一に追い
求め、イエス様と繋がり続ける事です。私達自身がイエス様と繋がっていれば、私達と関わりのある者たちに
対しても、全能主は心を使って下さり、実を残して下さるのです。
(結)さらに、旧約聖書の預言を見ると、これからの私達は、世界の人々に福音を語って行くという特別な
使命が与えられている事が分かります。アッシリヤに捕え移された後、行方が分からなくなった北イスラエル
の民は、東の島々を目指してシルクロードを進み、日本にたどり着いたと考えられています。日本の天皇家
やその祭儀を見て行くと、イスラエルの習慣や祭儀と似通っていて、イザヤ書の預言によれば、「彼らは
声を張り上げて喜び歌い、海の向こうからヤハウェの威光をたたえて叫ぶ。それ故、東の国々でヤハウェを
あがめ、西の島々でイスラエルの全能主、ヤハウェの御名をあがめる」(24:14~15)とあります。
これは、東の果てにある日本の事を指しています。さらに、イザヤ書41章2節には「だれが、一人の者を
東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。…」とありますが、この御言葉は、以前全能主から
与えられた御言葉でもあります。即ち、全能主は、東の果てにある日本の国と私達の教会を覚えて下さって
いるのです。私達はこんな預言をいただいているのですから、諦めてはいけません。私達は小さな教会
ですが、これから大きな実を結ぶのです。それは、私達が自分の力でする事ではなく、全能主が成し遂げ
られる業ですから、期待しましょう。自分の我や地上への執着を捨て、どこまでも「まことのぶどうの木で
あるイエス様に繋がり続け」、主が喜ばれる実を結ぶために、命をかけて進み、「いつ死んでも後悔しない
ように、今を信仰によって生き抜いて行きましょう。」
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