2026年8月16日
| 『ホセア書から全能主の痛みを伴う愛を知る』
ホセア書 1:1~11
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(起) 「ホセア書から痛みを伴う全能主の愛を知り」、私達は真心から悔い改め、肉の思いから
離れて、「全能主とイエス様の心を自分自身の心として歩む事」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、北イスラエルが滅亡に向かう時代のヤロブアム2世が、北イスラエルの王であった頃、
ヤハウェはホセアに「姦淫の女を娶り、姦淫の子らを引き取れ」と言われました。祭司や預言者は、「姦淫の
女」を娶ることは律法に反し、罪の汚れを受けることですので、当然嫌います。しかし、全能主は
時に律法に反する事をお命じになる場合もあるのです。それは、全能主の御心は一様ではないからです。
例えば、旧約では禁じられている事柄なのに、アブラハムに「自分の子を人身供養として捧げなさい」と
言われました。また、新約では、ペテロに対して「汚れた動物を屠って食べなさい」と言われています。
このように、全能主の考えには二面性があるのです。また、自然界の法則の中にも二面性があるのです。
例えば、光の性質には、波と粒の二面性の性質があります。このように、私達は全能主の考えを何でも
かんでも、一様に決め付けてはいけないのです。それは人間の傲慢が、勝手に決めつける論理です。
私たちは自分の智慧で、全ての事を正しく判断することはできません。何故なら、人間は被造物で
あり、自分の命を自分で創った者ではないからです。ですから、人間は命の創造主に対してへりく
だって従う姿勢を持つべきです。そこで、ホセアは全能主の命令に従い、ゴメルという姦淫の女を娶り、
裁きと呪いを意味する3人の子を儲けました。しかし、この女は、また他の男の所に走って行ったの
です。すると、全能主はホセアに「代価を払って、その女を買い戻せ」と言われました。実に、ここに
痛みの伴った愛が示されています。その内容はイスラエルと全能主との直接的な関係を暗示している
ものです。姦淫とは、霊的に捉えるならば、偶像の神々に帰依(すがる、嫁ぐ)する事です。
このイスラエル人たちは、全能主の言葉に聞き従う事を教えられて来たにも拘わらず、全能主に
背き、偶像の神々に移って行きました。ですから、本来なら完全に捨てられ、裁かれて当然の者
でした。しかし、全能主は彼らを見捨てられませんでした。紀元前721年に北王国は滅亡し(Ⅱ列王
18:9~12)、アッシリヤに捕え移されますが、ホセア書3章や6章を見ると「その後、イスラエル
人は帰って来て、ヤハウェとダビデを尋ね求め、終わりの日に、ヤハウェの恵みに来よう」(3:5)
と言われており、さらに「さあ、ヤハウェに立ち返ろう。主は私達を引き裂いたが、また癒し、私達を
打ったが、また包んで下さるからだ」(6:1)と語られて、激しい裁きと同時に、全能主の深い憐みの
言葉が記されています。
(転)さて、この内容は今日の私達とイエス様との関係を現している事柄です。イエス様は、全能主
から遣わされて、マリヤのお腹の中で十月十日間育まれて、人間の汚れた血、罪深い肉を荷って(ロマ
8:3)この地上に来て下さいました。それは、姦淫の女と結婚するのと同じです。しかし、聖霊によって
守られていたイエス様は、私達と同じ罪深い肉を持ちながらも罪を犯さず、十字架で人間の罪の贖いを
して下さいました。私達は、それほどの愛を受けながらも、なおも自分の欲望と罪の故に再び姦淫の
女となって他の男の所に行くような、実に、罪深く節度の無い人間です。実際に、主の救いを知った
上で教会から離れて行った者達がたくさんいます。こんな情けない話はありません。しかし、それでも
全能主は私達を見捨てず、「わたしに立ち返れ」と言って下さるのです。ホセア14章3節に「みなしごが
愛されるのはあなたによってだけです」とありますが、「みなしご」は、愛してくれる親がいなくなって
孤独になり、人から蔑まれ、嫌われ者となるのです。そんな、孤児である私たちを愛して下さるのは
イエス様だけです。私達は、自分で自分を救う事はできません。なのに、アッシリヤや、人間の手で
造った偶像に立ち戻るのは、実に愚かなことです。それは、自分の我を偶像にしている事と同じです。
しかし、全能主以外の物に頼っても、救いはありません。そんな私たちをイエス様は、代価を払って
買い戻して下さったのです。私達はそのことを、心底知るべきです。そして、14章2節には「あなた方は
言葉を用意して、ヤハウェに立ち返り、『すべての不義を赦して下さい』と言いなさい」とあります。私達は、
心の底から自分の罪を自覚し、「悔いた心で、不義を告白して」、唇の果実を現す事を求められて
いるのです。ホセア6章6節に「わたしは誠実を喜ぶが、生け贄は喜ばない。全焼の生け贄より、
むしろ全能主を知る事を喜ぶ」とありますが、イエス様はこの御言葉を引用して、マタイ9章13節で
「『わたしが好むのは憐れみであって、生け贄ではない』とはどういう意味か学んで来なさい。わたしが
来たのは、罪人が悔いて考えを入れ替えさせるために来たのです」と言われました。ですから、私達は
損得の入り込んだ表面的な悔い改めではなく、イエス様の語られた意味を学んで、真実な心を持って
自分の考えを入れ替え、本心から「自分の肉は罪のままでしかなく、何事も成し得ませんでした。ですから、
悔いて考えを入れ替え、自分の考えではなく、イエス様の考えに従います」と、全面的に無条件降伏して
イエス様の心に自分の思いを向けるのです。
(結)全能主は、姦淫の女にホセアを遣わしたように、罪深い私たちにイエス様を遣わして下さり、
罪汚れた人間のために、命の代価を払って罪の呪いの中から贖い出して下さいました。これ以上の
愛はありません。この痛みの伴った愛こそが本物の愛です。どうか、真心から自分の罪を自覚し、悔いて
考えを入れ替え、全能主に立ち返りましょう。そうすれば「たとい、あなた方の罪が緋のように
赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし
喜んで聞こうとするなら、あなた方はこの国の良い物を食べる事ができる」(イザヤ1:18~19)
と言って下さっているのです。私達は自分の肉の思いから離れて、全能主、イエス様の考えに
心底合わせ、自分自身の心を再起動して、主に従う道をひたすら歩んで行こうではありませんか。
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