2026年7月26日
| 『復活の証明』
第Ⅰコリント 15:12~19、58
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(起) 第Ⅰコリント15章の記事から、イエス・キリストの復活が事実であるが故に、「堅く立って動か
されず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい」という心で、福音宣教に従事して行く事を学んで行き
たいと思います。
その前にまず、創造主の存在の確かさを水の性質を通して見て行きます。水は、生命を生かすために
必要な性質をいくつも兼ね備えています。まず、水はほぼ何でも溶かすことができます。そのおかげで
私たちは糖分や鉄分、アミノ酸などの栄養を吸収する事ができ、またエネルギーとなる酸素ガスを血液の
中に取り込む事が出来ます。このように水ほど溶かす力が万能な物質は他にはありません。また、水は
温まりにくく、冷めにくいという性質を持っています。そのおかげで、太陽の熱を海水が受け留め、地球上
の温度を適度に保ち、生物が生きていけるように環境が整えられています。また、人が熱中症にならない
ように、汗をかいて水分を放出することで、体の熱を効率よく下げ、体温を一定に保ってくれています。
もし、水分が油やアルコールに置き換わっていたら、汗を流した割に体温を下げられず、気温の変化に
ついていけなくなり、死んでしまいます。さらに水の最も特別な性質は、氷という個体が水の上に浮くと
いう事です。ほとんどの個体は比重が高く、液体の中に沈んでしまいます。しかし、水は固体になると逆に
比重が低くなり、そのため氷は水面に浮き、上から順に凍っていきます。そのおかげで深海や北極など寒い
地域にいる魚でも、氷に押し潰される事なく生きていく事ができるのです。このように、生命の存続に
直結するような性質を持ついのちの水は、他の物質にはありません。この水の性質は、分子や原子に備え
られた性質から生み出されますが、それは、初めからそうなるように設定がされていなければ成り立たない
のです。誰がその設定をしたのでしょうか。偶然にその設定がなされたのではありません。まさに命の創造
主が、この水を存在させるための設定を、この世界が創られた時に定められたのです。創造主は「地を形
造り、…これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方」です。この御方の存在が
有っての命です。ですから、全能主の存在は否定できない現実なのです。
(承)このように、生命が生きるための完璧な環境を整えて下さった全能主は、私達の罪の救いのためにも
完璧な計画を成し遂げて下さいました。それが、「イエス・キリストの十字架と復活」です。私達の信仰に
とって、キリストの復活はとても大切なポイントです。なぜなら、「キリストの復活が事実であるが故に、
私達もキリストにあって復活する」という望みを持つ事が出来るからです。ところが、その事実を馬鹿にし、
疑いを持つ信者が、聖書の初期の時代からいたのです。そこで、パウロは彼らを納得させるために語り始め
ました。第Ⅰコリント15章3~6節を見ますと「私があなた方に伝えたのは、キリストは私たちの罪の
ために死んだ事、葬られた事、三日目に甦られた事、そしてケパに現れた事です。それから、十二弟子に
現れ、その後、キリストは同時に五百人以上の兄弟たちに現れました。そして彼らの内、既に眠った者達も
いくらかいますが、大多数の者は、今なお生き残っています」と言っています。パウロがこの手紙を書いた
のは、イエス様の昇天後20年~25年経った(紀元57年)頃と言われています。ですから、当時の社会
には、キリストの復活を見た五百人以上の証人の多くはまだ生きていたという事です。ですから、もしキリ
ストの復活が作り話であれば、彼らの証言によってすぐに嘘だと判明し、パウロが書いたこの文書も偽りの
物として抹殺されて行ったでしょう。ところが、パウロが書いた文書は今現在までずっと書き写されて
残っています。また、「キリストの復活を見たと言う者達は、幻覚を見ていたのだろう」と言う人達も
いました。ところが、五百人以上の人達が、同時に同じ幻覚を見る事は科学的にあり得ません。また、
「アリマタヤのヨセフの墓ではなく別の墓に納めたのだろう」とか、「誰かが遺体を盗み出して別の墓に
移したのだろう」と言う人達もいました。ところが、もし誰かがイエス様の遺体を盗んで別の場所に納めた
とするなら、そこから遺体を持ち出して、「民衆の前に死体を見せれば」、この噂話は、とっくに消え去って
いたことでしょう。しかし、それができなかったのは、「キリストの復活があった」という証言が事実で
あったからです。ですから、今日まで聖書の教えが広められているのです。
(転)こういうわけで、キリストの復活は歴史上の事実なのです。だからこそ、今日まで聖書を通してキリ
ストの福音が伝えられているし、弟子達が命をかけて宣べ伝えた証しが、今日まで残っているのです。
さらに、総督の権限で死刑にさせられたイエス・キリストが生きているとなれば、ローマ皇帝の権威に関わり
ますから、弟子達は皆捕えられ、尋問されました。そして、その使徒達は十字架に磔となって殉教して
行ったのです。人は、嘘の事実のために、自分の命を懸けることはできません。しかも、一人二人ではなく、
全員がそうしたのです。即ち、彼らは命をかけて、「自分達はイエス様の甦りを見ました。これは歴史上の
事実です」と証ししたのです。そして、日本でも多くのキリシタン達が命をかけて信仰を守り通して行きま
した。それは単なる「根性」ではなく、イエス・キリストの復活が救いの明確な証拠であったからです。
(結)私達は自分自身の力で罪の責任を帳消しにする事はできません。だからこそ、全能主はイエス
様を私達の身代わりとして送られました。それが真実であるという事の証明がイエス様の復活です。
そして、私達はこのイエス様の復活の事実の故に、「終りのラッパの響きと共に、朽ちるものが朽ち
ない身体に復活し、まばたきする瞬間に変えられ、天に属する者とされ、永遠に生きる者とされる」
という、望みを持つ事ができるのです。ですから、私たちも「ここに堅く立って動かされず、いつも
全力を注いで主のわざに励みましょう」(15:58)。そして、自分の命をかけて信じ続け、「いつ
死んでも後悔しないように、今を信仰によって生き抜き」、キリストの福音を宣べ伝えて行こうでは
ありませんか。
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