2026年7月19日
『「女性は助け手」として造られている本質から、 対等平等意識を捨て、心砕いて仕えていく喜びを味わう』
第Ⅰコリント 11:3~16
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(起) 第Ⅰコリント11章の被り物の記事から、「女性たちが、全能主への信頼に心が向けられていない
原因は何か」を探り、女性が男性に対して持つ「対等意識」や「平等意識」は、信仰が成長しない原因であり、
聖書の教えから逸脱していて、むしろ「女性は助け手」として造られている本質に目を留めていき
たいと思います。
その前にまず、全能主の存在を植物の構造から見て行きます。植物は、水や養分を根から吸収し、それを
幹から枝へ、さらに枝から葉へと届けています。このような流れを「枝分かれ構造」と言います。この「枝
分かれ構造」は、血管やアリの巣や葉脈などの自然界の仕組みにも、数多く見られます。この仕組みには、
もし一カ所で問題が生じた場合でも、全体への影響を防ぎ、一部の障害だけで抑える利点があります。
また、この仕組みは私たちの身近な人工物にも使われています。例えばマンションでは、電柱から引き込ま
れた電気が変圧器を通り、各住戸の分電盤へ送られ、そこから照明やコンセントなどへ枝分かれして
供給されます。さらに、水道配管、空調ダクト、道路網なども、同じような「枝分かれ構造」を採用して
います。これらの人工物には、必ず設計者がいて、分配の設計図を描き、「どのようにすれば効率よく届け
られるか」を考えて作られているのです。植物の場合、これらの精巧な「枝分かれ構造」は、植物自身が
設計したのでしょうか。或いは、偶然がそのような仕組みを設計し、造り上げたのでしょうか。いいえ、
植物自身が設計したのでも、偶然に作られたのでもなく、人知を遙かに超えた全能主が、前以て全てを
設計し、一見、何でもないように見える物にも、複雑な仕組みが施され、その計画性によって、創造主の
智慧の深さを垣間見るのです。私たちは、この創造主の叡智があってこそ、生きて行ける存在なのです。
この「原因結果の法則」は、全てのものに当てはまり、全能主の存在を語り伝えているのです。
(承)さて、私達の命が全能主の叡智によって存在していたことが分かって来たとき、その全能主の教えに
従って生きるところに、私たちの幸いがある事が見えてきます。例えば、聖書には、全能主が男と女に対して
目的をもって創造されたことが記されています。人の創造の初めに、全能主は男をご自分の如くに創り上げ、
また女を男から造り上げて「男の助け手」とされました。ですから、男は全能主の栄光の形を持っており、
女は男に属する者とされました。それ故に、「男は女のために創られたのではなく、女が男のために造られ
たのです」(第Ⅰコリント11:7~9)と言われています。また、第Ⅰコリント11章3節を見ますと
「女の頭は男であり、男の頭はキリストであり、キリストの頭は全能主です」とあります。ここを見るだけ
でも「男と女は対等ではない」という事が分かります。ですから、「女は男に属している栄光」であり、
自分の栄光を表す立場にはありません(7節)。それは言葉を換えると、「男女平等でも、男女同権でも
ない」ということです。即ち、「主権は男にある」というのが全能主のお考えです(9節)。その秩序は、
全能主が決められた秩序ですので、その秩序に従って行くかどうかを、御使いは天から見ています。この
秩序が全能主から発しているからです。ですから、「女は男の権威に服している」という印を、被り物を
被る事によってその心を表わすように諭しているのが、全能主の教えなのです(10節)。
(転)ところが、現代の女性達にとって、この全能主のお考えに従って生きて行くのは難しい事です。
なぜなら、戦前には、日本の教育は男女の区別がはっきりと教えられていましたが、戦後アメリカの民主
主義が日本に入って来た時から、「男女平等・男女同権」という聖書とは考え方の違う教えにガラッと
変わって行ったからです。戦後の日本は、男女が平等に教育を受けるようになり、今では、女でも能力が
あれば男の上に立つという世界になっています。そこには男女の区別がなくなり、現代の女性達の中に
「夫に従いなさい」という感覚が、時代遅れになってしまったのです。さらには、「子供の教育は学校に
任せておけばいい」という親の放任主義も重なった事によって、子供は親の言う事を聞かなくなり、「自我を
主張するのが当り前」となってしまいました。ですから、「女は男に従う者である」という聖書の教えが、
素直に入って来なくなったのです。ここに、女性達の信仰が成長しない原因があります。なぜなら、男女
同権意識から、自己主張をするのは自然なことになり、もし女が平等意識を持つなら、「従う」という聖書の
教えは、空文化してしまうからです。すると、全能主に従うために必要な、自己否定が難しくなり、
頭では分かっていても、心が付いていかないという信仰になってしまうのです。これでは、自分の考えが
先立ち、全能主の考えに対して素直になることが出来ません。これが不信仰の原因であり、自分中心な
御利益宗教になってしまっている理由なのです。男の場合でも、当然、自我が砕かれなければ全能主に従う
道には歩めません。しかし、男の場合は、社会的に責任を負わされていますので、常に従わなければ、
その報いを受けます。ですから、男にとって従うことは、社会的に負わされた死活問題です。このように、
男性は比較的に信じた後は、全能主に従うことは当然の事として受け止めることが容易いのです。
しかし、男にもプライドがありますから、無条件に従うことは難しい事柄です。もし、肉のプライドを砕く
事ができれば、男であっても、女であっても素直に主に従う者となって行けるでしょう。この全能主に従う
心は、奴隷のようになるという事ではありません。どこまでも、人間は自由意志を頂いている者です。
ですから、その自由意志を用いて、女性の場合なら「男の助け手として造られた事を認め」、男が考えて
いる事を理解し、同じ気持ちになって後押しして行けばいいのです。それは決して屈辱ではなく、幸いに
繋がります。それが本当の助け手であり、同時に、「できないと思う事もやります」という、リスクを
負って従って行く覚悟が本当の助け手です。また、男も同じで、全能主に従う場合には、それだけの覚悟が
必要です。それが、たとえ死に渡されるような場面に陥ったとしても、うろたえて逃げ出すようではいけま
せん。「主を仰ぎ、しっかり立ちなさい。男らしく振る舞い、強くなりなさい。一切のことを、愛を持って
行いなさい」(第Ⅰコリント16:13~14)とあるように、損得抜きの一方通行の愛を持ってリスクを
負い、男らしく主に従って行くのです。
(結)私達は全能主の手によって創られたのですから、全能主のお考えに従うのは当たり前です。そして、
「私達の自我はイエス様にあって死んだものですから」、もう自我に拘らず、新しい命の中に生かされて
いる者として、「飲むにも食べるにも、何をするにも、全能主の栄光のためにして行く」(第Ⅰコリント
10:31)のが、クリスチャンの生き方です。特に女性は、今までの「対等意識、平等意識」を捨て、
心を砕いて仕えて行く事の喜びを味わって下さい。
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