2026年7月12日
『肉に属する者ではなく、御霊に属する者として、
明確な信仰の確信に立ち、今を信仰によって生き抜く事』
第Ⅰコリント 3:1~17
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(起) 第Ⅰコリント3章の御言葉から、「肉に属するものではなく、御霊に属する者として、明確な信仰の
確信に立ち、今を信仰によって生き抜く事」を学んで行きたいと思います。
まず、創造主の存在を、「耳垢」に注目して紐解いていきます。耳垢というと、「不潔なゴミ」と思われて
います。しかし、耳垢があるからこそ、鼓膜までの外耳道が清潔に守られているのです。なぜなら、
耳垢は外耳道の中の比較的厚い層の皮膚が剥がれて落ち、その皮膚の汗・脂、また外部からの埃が固まって
出来たものです。ですから、「不潔なゴミ」と言えますが、耳垢には驚くべき3つの役割があります。
1つ目は、弱酸性の性質により、耳に侵入した悪質な菌の繁殖を防ぎます。2つ目は、虫が嫌がる独特の
匂いを持ち、眠っている間などに虫が耳の中へ侵入するのを防いでいます。3つ目は、含まれる油分が
天然の保湿クリームとして機能し、デリケートな耳の皮膚を乾燥から守ってくれます。このように有用な
耳垢ですが、ずっと耳の中にとどまると外耳道を塞いでしまいますので、そうならないように、外耳道には
耳垢を自動排出する機能が備わっています。外耳道の皮膚は鼓膜周辺で生まれ、常に古い皮膚細胞を耳の
外部へと押し進めています。さらに、顎の動きによって耳垢が逆行しないように外部へと誘導されて
いるのです。耳垢のこれらの全自動の仕組みは、偶然の仕組みとは考えられず、人知をはるかに超えた設計
者がいると考えなければ、理解できません。聖書は、「全能主は御旨のままに、器官をそれぞれの身体に
備えられた。…また、身体の中で他よりも見栄えのしない諸器官が、かえって必要不可欠であり、これらの
見劣りがすると思える器官こそ、重要な役割があり、より尊ぶのです」と語り、耳垢という一見見劣りする
ものこそ、実は考え抜かれた必要不可欠な物質であったことを記しています。ここに、「全能主の深い知恵」の
配慮が刻まれているのです。
(承)さて、こんな素晴らしい命の仕組みを見ていきますと、私たちは、命の創造主に対して、この地上で
どのような生き方をして行くかが、大切になって行きます。それは、御霊による生き方にあります。
しかし、これと相反する生き方は、肉による生き方です。そこで、第Ⅰコリント3章1節を見ますと、
「あなた方には、御霊に属する人のように話す事ができず、肉の性質に属する者のように話さざるを
得ません」とあります。この肉に属する人とは、他の箇所で「私は生まれながらに肉に属する者であって、
罪の下に売り渡された者です。だから、私は自分のしたい事は行わず、かえって自分の憎む事を行って
来ました」(ロマ7:14~15)という人のことです。この肉に属する彼らは、「自分中心で、思いの
ままに生きて来た為、死を迎えた時に、それらの罪の清算が行われ、はっきりと過去の罪が思い返されて
裁かれる人々です。」その時になっては、いくら悔いても、弁明してもどうにもならず、自分の行って
来た罪を思い出して、取り返しの付かない事実に嘆くのです。それが肉に属する者の最期です。一方、
御霊に属する者とは、創造主に在って生きて来た人です。その人は、同じ罪人ですが、生きている時に
自分の罪を認め、イエス様の贖いによって罪が赦され、同じ罪の肉を持ちながらも、その人の内に全能主の
御霊が宿った人のことです。そして、その人には「その御霊によって、死ぬべき体をも生かして下さる」
(ロマ8:11)と、約束されています。それは、全能主とイエス様が結ばれた契約によって実現すること
です。即ち、全能主がイエス様に命じて、「お前の命を差し出し、人間の一切の罪の償いをしなさい」と
言われ、その通り、イエス様が十字架にかかって死なれ、血を流された事によって、救いの契約に効力が
発生し、「死ぬべき身体も活かされる」という特権に預かれるのです。これを信じた者には全能主の御霊が
宿った為、「イエス様が再臨される時に、イエス様と同じ姿・性質に変えられる」という確かな望みを持つ
事ができるのです(ピリピ3:21)。これが、肉に属する者と御霊に属する者の明確な違いです。
(転)では、私達は御霊に属する者として、どのような生き方をすれば良いのでしょうか。それは、第Ⅰ
コリント3章9節に記されているように、私達は全能主の「建物」であると言われており、イエス様が、
その建物の土台であって、その土台の上にどのような建物を建てるかが大事だと語っています。そして、
「その真価は、裁きの日に、火によって試される」(3:13)と言われています。それは、キリストの
土台が据えられても、もし全能主を否定し、地上での損得ばかりを考えて、普通の人のように歩んだ人の
建物は、燃え尽きてしまいます。しかし、イエス様の救いを心から感謝し、全能主に対して生き、御霊に
属する者として歩んだ人の建物は残ります。実際にその真価が試される患難時代は、目前まで迫っています。
最近はAIによって遺伝子を操作して、病気を治し、寿命を引き延ばす技術や、死なない身体を作る研究も
なされています。その世の流れに乗って、恐ろしい悪魔の手に陥ると、人間は「病気は嫌だ、死ぬのが怖い」
と言って、自分の身を悪魔に手渡すようになり、「全能主の御霊が宿る聖なる宮」を、666に渡すことに
なります。(第Ⅰコリント3:16~17)。このような人は、肉に属する者として、悪魔の罠に填まり、
永遠の命まで失ってしまうのです。そんな事は、決してあってはなりません。
(結)ですから、「私達は肉に属する者ではなく、御霊に属する者」として全能主を愛し、たとえ私達の
命を死に渡すことがあっても、「いつ死んでも後悔しないように、今を信仰によって生き抜くことです。」
そうすれば、この命を死に渡しても、御霊によって甦らされ、永遠の命に与るのです。こんなに尊い
救いを蔑ろにしてはなりません。自分の肉の考えや地上的な損得ではなく、「全能主にあって上から
考えていく事」が、私達の生きて行く確信なのです。この確信に立ち、御霊に属する者として、今を信仰に
よって生き抜いて行こうではありませんか。
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