2026年6月7日
『感情や自我から聖書を理解するのではなく、
全能主の側から考えて学んでいく方法へ パラダイム転換する』
ガラテヤ人への手紙 2:19~20
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(起) ガラテヤ書2章の御言葉から、「自分の感情や自我によって聖書を理解するのではなく、全能主の
側から考えて学んで行く」という方法に「パラダイム転換」し、「全能主ファースト」の考え方を学んで
行きます。
まず、創造主の存在を「舌の仕組み」を通して見て行きます。実に、舌は人間の体の中でも、最も
緻密な器官の一つです。私達は食事をする時、何気なく舌を使っていますが、舌は食べ物の位置を
確認し、噛み易いように歯へ運びます。そして、舌を噛まないようにしながら食べ物だけを
噛み、飲み込みやすいように食べ物を一つにまとめて、喉へ送り込んでいます。また、言葉を
発する際も、舌の位置によって発音を変え、会話を成り立たせています。これらの動きは、無意識に為され
ていますが、考えてみると、実に不思議な働きをしているのです。その不思議な動きが出来るのは、「舌の
形を変える筋肉」と「舌全体を動かす筋肉」の二種類があるからです。この筋肉の仕組みによって、舌は
自由自在に形を変えながら緻密な動きをします。これは、人間の手の仕組みとよく似ています。
手は、指を動かす繊細な筋肉と、動きを支える大きな筋肉が協力する事で、緻密な動きをして
います。また、手と舌には髪の毛一本を感じ取れるほどの鋭い感覚神経があります。更に、舌には多くの
血管や神経が集中しているので、味覚を感じ取り、危険なものを避けたりする働きも担っています。
このように、舌は小さな器官でありながら、複雑で精巧な仕組みを備えています。このような優れた
仕組みを見ると、舌は最初から目的を持って設計され、創造された器官である事が分かります。それは、
叡智ある全能主が仕組み、創造された事の証です。
(承)さて、叡智ある御方によって与えられた、私たちの命の用い方をガラテヤ書から見ていきます。
パウロさんの時代のユダヤ人は、「選びの民として、律法を守って行く事が絶対的に正しく、その歩みの
中にあれば祝福を受ける」という意識を、当たり前のように持っていた時代です。ですから、「ただキリ
ストを信じるだけでは救われない、信じた者は皆、律法を守って割礼を受けるべきだ」と語って、キリスト
の救いを歪めるユダヤ人達がいたのです。しかし、この律法の定めは、ユダヤ人にとって、幾ら正しい
戒めであっても、その通り行えないというジレンマがありました。それは、イスラエル人自身が、旧約時代
の歴史の中で味わっていたものです。ですから、ユダヤ人にとって律法の遵守は、一見すると正しく
思えるものでも、論理を展開して行くと、「最終的には祝福ではなく呪いに向かう」(3:10)という
矛盾した結論に至っていたのです。この状況を「パラドックス」と言い、この逆説は「一般に真理である
ように見えても、良く吟味すると、真理に反している」という事です。それは、罪人の人間では、全能主の
律法を誰一人守れなかったからです。そこで、このユダヤ人と同じように、私達も戦後のアメリカ人の宣教
によってもたらされた律法主義によって、信仰がアメリカナイズされ、「『聖く正しく生きる』という自分
の行いによって、救われる」という、ギブ&テイクの律法主義に陥ってしまっていたのです。
(転)そこで必要となるのが「パラダイム転換」です。「パラダイム」転換というのは、「ある時代に
おいて、人々が物事を捉える共通の物の見方、考え方、価値観」を転換することです。このことは、
私達にとっては、「信じたクリスチャンが、自分の行いや努力で正しい人間になって救われようとする、
律法主義的な考え方」からの転換を図ることです。すなわち、律法主義から「パラダイム転換」を図り、
「人は律法によって義と認められるのではなく、キリストを信じる信仰によって、義と認められる」という
単純な聖書の真理に戻ることです。即ち、律法的な考え方を改め、「信仰の法則」を通して、全能主の
見方に変えることです。この見方に変えることによって、「信じる者は皆、キリストによって、約束に
基づく相続人とされる」(3:26、29)、という祝福に預かれるのです。なぜなら、これは、「信仰の
法則」(ロマ書6:11)によって、「自我はキリストと共に死んだ者とされ、キリストによる命によって
活かされた者として、自我から離れて、全能主の見方に変える」信仰の法則に変えられるからです。この
「パラダイム転換」を一事で言うならば、「主に信頼せよ、主が成し遂げて下さる」という生き方を現実の
生活の中で行って行くことです。何故ならば、クリスチャンは信じていると言いながら、普段の生き方の
中では、「自分の自我によって、自分の益になるか、損になるか」という「損得感情」の御利益宗教に
なっているからです。ですから、その考えを改め、「パラダイム転換」をして、「まず、全能主の国と、
全能主の義を第一に求め」、また、「私たちの内、誰一人として、自分のために生きている者はなく、
誰一人として、自分のために死ぬ者は在りません」(ロマ書14:7)という生き方に変換するのです。
ところが、この生き方を自分の歩みに、当てはめることが出来ないと思ってしまう多くのクリスチャンが
いるのです。それは、いつも自分の側から物事を見る癖が付いているからです。私たちは自分を見ると、
「私は罪人であり、弱い人間だから、そんな信仰に立てない」と思ってしまいます。しかし、「信仰の法則」
の見方は、聖書による全能主のお考えであり、全能主が決定された事です。ですから、聖書をそのままを
信じて、「パラダイム転換」をして受け留めた者が、クリスチャンとしての幸いを受けるのです。
(結)こういう訳ですから、生まれた時から当たり前になっている、「自我や感情から物事を見るのを
止め、イエス様から物事を見て行く」という考え方に「パラダイム転換」し、「全能主ファースト」の
生き方を始め出すのです。それは、「信仰の法則によって、自我は死んだ者として認める」所から
始まります。という事は、自分の肉のダメな部分にいちいち心を向けるのではなく、むしろ、「全能
主にあってどうすべきか」という考え方に心を向けて行く事です。罪を犯したり、失敗をしたりする
ことは、日常茶飯事に起ります。しかし、たとえそうであっても、私達の肉・自我は
アオリスト形の贖いの故に、既に死んでいますので、「今はキリストを信じる信仰で生きる」
(ガラ2:20)のです。ですから、自分の自我に拘らず、素直に謝り、怒られる事を受け
留めて行けば良いのです。このようにして行けば、私達の生き方は非常に単純になり、気持ちが楽に
なります。そして、聖書の読み方も、「どうか私に教えて下さい」と祈り、「全能主の側で、上から
読んで行こう」とするなら、「これもすごい事だ。これも感謝な事だ」と、イエス様の愛の広さ
深さが見えてきます。どうか、この「信仰のパラダイム転換」を図り、「全能主ファースト」の
生き方の中で、残りの生涯を全能主の栄光のために、生きて行こうではありませんか。
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