2026年5月31日
『全能主への生きた聖なる供え物として、 自分自身を献げ、主に使って頂く事』
ローマ人への手紙 12:1~2
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(起) ロマ書8章と12章の御言葉から、8章による御霊の法則の中で、「全能主への生きた聖なる
供え物として、自分自身をささげ」、主に使って頂く事を学んで行きたいと思います。
まず、創造主の存在を、「爪の仕組み」を通して紐解いて行きます。私たちの指先に備わっている
「爪」は、単に細胞が硬化したものではなく、指先の機能を極限まで引き出すために設計された「精巧な
器官」なのです。実に爪の機能は多岐に渡っています。まず、爪の硬さは指先を保護する「強固な盾」と
なっており、指の腹からの圧力を押し返すことで微細な凹凸や質感を感じ取れるよう「触覚を補助」して
います。また、物を強く掴むグリップ力により「精密操作を可能」にしています。また、足の爪は、
歩行時に強い蹴り出しを支える「反発力」を生み出して、高い運動性能を発揮させます。これらの機能を
生み出すためには、薄くて強靭な板である必要がありますが、骨が薄くなったのでは同じ役割を
果たせません。なぜなら、骨はカルシウムでできており硬いのですが、衝撃には脆いという弱点が
あるからです。これに対して爪は、その根本にある爪母で生み出された細胞が、人体で生成できる
最も硬いタンパク質であるハードケラチンを合成し、「硬さ」とタンパク質特有の「粘り」を獲得します。
さらに、爪の構造を三層にし、層ごとに繊維の向きを交差させ重ねることで、強靭さを強化しています。
そして、成熟した細胞は核を消失して「死細胞」となり、伸びた爪を切っても痛みを生じず「硬くて衝撃に
強い爪」として完成します。実に、爪には明確な目的と、驚くべき仕組みがあります。これは当たり前だと
見てはなりません。また偶然の産物だと見ることにも、無理があります。正に、人知を超えた設計者の
存在を考慮に入れなければ、爪の存在を説明できません。この設計者を聖書は「全能主ヤハウェ」であると
はっきり示しています。全能主の計り知れない叡智は、広大な宇宙から私たちの指先の数ミリの
細部に至るまで、一貫して及んでおり、その存在を明瞭に示しているのです。
(承)さて、この全能主ヤハウェは、私達の地上での生き方も示しておられます。特にロマ書12章に
入ると「こうしなさい、ああしなさい」という戒めがたくさん書かれていますが、1節を見ると「全能主の
憐れみによって、あなた方に勧めます」とありますので、決して強制ではなく「一人一人が自発的な信仰の
心によって、この中を歩んで行くように」という全能主からのアドバイスです。そして、2節では「この
世と妥協せず、自分の心を新たにし、何が全能主の御旨であり善であるかをわきまえ知るために、変えられ
続けなさい」とあります。救われた者は罪から解放され、自我は死んだものとされていますが、これは
アオリスト形ですから、現在の私達は、「罪が完全に消え去った中で生きている」という事ではありません。
だからこそ、過去の肉の生き方ではなく、新しくされた者として生きて行く「わきまえ」が必要なのです。
(転)では、私達はその生き方をどのようにして行なえば良いのか見ていきましょう。それは、「御霊の
法則」によって歩む事です。ロマ書8章1節には「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む人々は、決して
罪に定められることがない」とあります。ここで、「肉に従って歩まず」とあえて書いてあるのは、実際
問題、「肉の中にある」という現実があるからです。ところが、「肉の中にあっても、御霊に従って歩みな
さい」と言われているのです。この「御霊の法則」は、ロマ書6章11節の「一方では罪に対して死んだ
ように、他方ではイエス・キリストにあって生きている者であると認め、信じなさい」という「信仰の法則」
の上に立って歩むことです。つまり、「私達の自我は、イエス様のアオリストの贖いの故に、既に死んだ
ものである」という信仰の法則による前提があるからです。「御霊があなた方の内に住んでいるなら、
あなた方は肉の中にはなく」(8:9)、また、「キリストがあなた方の内におられるなら、一方で身体は
罪の故に死んでいても、他方では、キリストの故に甦った永遠の命の中にある」(8:10)という「御霊の
法則」が成り立つのです。この事を信じた人は、8章12節にある通り、「肉にあって生きていても、肉の
性質に従って生きる義務を負っていない」のです。それを地上的な人間的な感覚からすれば、「自分その
ものである自我」を無視して生きる事は、自分に対して不正直で、身勝手な考え方のように思われるかも
知れませんが、「全能主自身が「肉に従って生きる義務は与えていない。自我を持っていたとしても無視
して構わない。代わりに、御霊の法則に従って歩みなさい」と言って下さっているのです。ですから、
私達は全能主の霊である御霊様が教えて下さる中で、全能主の側で物事を考え、生きて行って良いのです。
(結)この「御霊の法則」による歩みは、最終的に14章7~8節の「生きるにしても死ぬにしても
主のため」というところに行き着きます。実は、これこそがクリスチャンの行いの原点なのです。
12章9節以降には「愛には偽りがあってはならない」など、多くの教えが並んでいます。これらを、
自分のための努力や義務と捉えてしまうと苦しくなりますが、主のためなら「分かりました」
という気持ちになれるのではないでしょうか。しかも、自分の力でやる訳ではなく、御霊様が弱い
私達を助けて下さり、「主に信頼して行く時、主が成し遂げて下さる」のです。どうか、この「御霊の
法則」の中で歩み、全能主への生きた聖なる供え物として、自分自身をささげ、使って頂こうでは
ありませんか。
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