2026年5月24日
『自我はキリストと共に死んだものとされた私たちが、 新たにキリストにあって生きて行く、信仰の一本道の歩み』
ローマ人への手紙 9:6~24
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(起) ロマ書9章6~24節の御言葉から、「自我はキリストと共に死んだものとされた私たちが、
新たにキリストにあって生きて行く、信仰の一本道の歩み」を学びたいと思います。
(承)まず初めに、全能主の存在を「小腸の仕組み」を通して見て行きたいと思います。小腸では、主に
胃で消化された食べ物から栄養素を吸収する働き、また栄養素を吸収するために千分の1ミリ以下の
物質へ分解する働き、また胃液で殺し切れなかった細菌やウイルスを死滅させる免疫の働き、更に食べ
カスを大腸へ運ぶ働きなど、様々な働きをしています。そして、その食べた物の栄養素を吸収するために、
小腸は直径約3cm、長さ6~7mの長い管を持ち、かつ、内部には「微絨毛」という
千分の1ミリという小さな突起が無数に存在しています。そして、その微絨毛の凹凸の表面積に
よって、栄養素を余す事なく吸収する仕組みが備わっているのです。小腸内の表面積はなんとテニスコート
のシングルコート1面分(200㎡)にも及びます。人のお腹の中に、6~7mの長い管が絡まったり
せず収められ、またテニスコート程の広い面積が収まっているなんて、想像もつきません。実に、これだけ
の仕組みが、「おぎゃあ」と産まれた瞬間から完成されていなければ、栄養素は吸収されず、また食べカス
を体外へ排出できずに、体は細菌よって侵されてしまいます。ですから、この命の仕組みは、徐々に出来
上がる進化では生存できなく、創造主抜きの偶然とか進化では説明できない事です。ところが、聖書には、
はっきりと「全能主が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた」とあり、全能主が人の命を
創造された事が記されています。小腸の仕組み一つ見ても、偶然には出来ない叡智の創造物です。
それが、身体全体に渡って驚くべき仕組みがほどこされ、全能主の叡智によって創られているのです。
この命の仕組みを垣間見るとき、それは、全能主が存在している事を証明しているのです。
(転)このように、私達の命の起源を見たとき、全能主には、あらゆる絶対的な能力が存在していることが
分かります。私たちは、この全能主によって創られた尊い命であるはずですが、私達は自分勝手な多くの
罪を重ねて来ました。その故に、最後の裁きの時には、その罪の報いをこの身に帯びる怒りの器となるの
です。それなのに、ロマ書9章22~23節を見ますと、「滅ぼされるべき、この怒りの器を大いなる
寛容をもって忍耐して下さった全能主が、憐れみの器として、御自身の栄光の富を知らせようとされて
いる」と書いてあります。即ち、全能主がイエス様を通して私達の罪の贖いをして下さり、私達を「怒りの
器」から「憐れみの器」として下さる道を開いて下さったのです。しかし、私達はそれを実際にこの目で
見たわけではありません。それなのに、私たちが今、信じ信頼しているのは、「イエス・キリストが私達の
罪の贖いをして下さった」という事が、ギリシャ語のアオリストの時制で行われたと聖書に書いてあるから
です。この「ギリシャ語のアオリストの時制」というものは、「過去の行われた事実を単純に表明している
こと」であり、私たちの経験上の事柄ではないのです。即ち、「キリストが、私達の罪の贖いを御自分の
死によって贖って下さり」、私たちがその贖いを信じた時に、「私たちもキリストと共に死んだものと
見なされる」という時制なのです。どういう事かと申しますと、私達は今現在罪を持っています。しかし、
全ての主権をお持ちである全能主が、「お前の罪のために、イエスの身代わりの死がある。だから、お前の
ために、罪の償いが為され、新しい命の中で生きていく事が出来るのだ。」と言われたのです。この事は、
私達の経験上の事柄ではなく、イエス様を通してなされた事実を信じる行為なのです。ですから、
全能主がキリストを通して贖われたのは、過去、現在、未来に渡った罪の赦しです。その事は、今現在の
私達の経験を通して「理解するとか、しないとか」という問題ではありません。全能主が既に私達のために
行って下さった事実を、アオリスト形で宣言して下さったということなのです。この事実を私たちは、
「何と感謝な事でしょうか」と素直に受け入れ、信じて行くのが、「信仰の法則」なのです。ロマ書6章
11節に「あなた方自身も、一方では罪に対して死んだように、他方では全能主に対して、イエス・キリ
ストにあって生きている者であると、認め続けなさい」とある通り、全能主がやって下さった事を素直に
受け取り、認め、信じる事です。自我を持っていると、私達は迷い、悩み、苦しむだけですが、「あなた
方はキリストと共に死に、自我もキリストと共に死んだのだ」と言われたら、そんなありがたい事はありま
せん。「あとは、イエス様によって新しく生かされた、信仰の一本道で歩むのみです。」その道は、どこ
までも主に信頼して行く道です。その「信じる心だけでいいのだ」と心を定めて始め出せば、ジョージ・
ミュラーのように、私達もあらゆる問題について主に祈り、主に助けて貰う事ができます。その中で、
もし自分自身が罪を犯し、失敗をしたら、それを棚上げせずに正直に認めれば良いのです。正直に認めれば
痛みを感じますが、その痛みがあるからこそ、全能主がイエス様を通して与えて下さったアオリストの
救いの有難さが分かるのです。そして、再起動ボタンを押して、また新たに「信仰の法則」によって歩み
出す事ができるのです。何と感謝なことでしょうか。
(結)このメッセージは、これまでの総仕上げであり、世界中のクリスチャン達に伝えたい事です。
しかし、だからと言って、私達は自由に世界に行けるわけではありません。しかし、主の御心であれば、
可能です。ですから、全能主に祈りましょう。「自分自身の自我はイエス様と共に死にました。これからは
キリストにあって生きて行くのです」というメッセージを、心から「アーメン」と同意して、その空っぽの
器を差し出すとき、全能主はその器に油を満たし、力を与えて下さいます。どうか、主が全てを成し遂げて
下さいますので、どこまでも主を信頼して、キリストと共に葬られた自我を認め、新たにキリストにあって
生きて行く、「信仰の一本道の歩み」を全うして行きましょう。
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