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2026年5月17日

自発的な信仰の法則によって、律法を確立して行く

ローマ人への手紙 3:27~31 


(起) ロマ書3章31節の御言葉から、「自発的な信仰の法則」によって、「律法を確立して行く」という事を

学んで行きたいと思います。



(承)さて、ロマ書3章31節には、信仰によって律法を確立するのですとあります。しかし、パウロは

「律法から解放されました」と言い、また全能主も「人は律法によっては義とされない」という事を、

はっきりと宣言されました。それなのに、私たちは「律法を確立する」必要があるのでしょうか。もし確立

出来るものなら、それは義務感からではなく、自発的に行うものでないと確立した事にはなりません


しかし、罪人である私たちが、自分の努力で律法を確立することは不可能です。
また、パウロさん自身も

出来なかったと告白し、自分は(みじ)めな人間だと認めています
それなのに、もし自発的に行うとする

ならば、義務感や責任感ではなく、愛による一方通行の行ないでなければ成りません。もし義務感や責任

感で行えば、それはギブ&テイクという取引となり、偽善的な行為になります。その偽善行為をイエス様は

厳しく非難されました。ところが、もし律法とは別に「人は信仰によって義とされる」という「信仰の法則」

を根拠に、「自ら進んでキリストの律法を守るなら、律法を確立すること」になります。それは「もし

私たちが、キリストと共に死んだのなら、私たちもまた、キリストと共に生きる」
という生き方から生まれて

くるものです。これが、「自発的な信仰の法則」です。というのは、この「信仰の法則によって、キリストと

共に死んだ者は、自分の「自我」も死んでしまった」からです。ということは、もう「罪の自我」に聞き従わ

なくてもいいという事です。死んだ人間はただ、「キリストの考えの中」で、新しく歩み出せば良いという

ことです。
この「自我が死んだ」のであるなら、自分の自我に怯える必要も無く、自分の自発的な気持ちで,

キリストの律法を守ろうとするようになります。即ち、喜んで全能主の御心の中に聞き従って行こうという

思いにさせられるのです。ここでようやく、信仰によって生きる生活が始まります。それは、自我から

解放された自由な自発的な生き方が始まるからです。
これこそ、「自発的な信仰の法則」から生まれる喜び

です。この生き方が始まると、地上の苦痛と思い煩いから解放されます。それは、新しい生き方がキリストに

あって出来るからです。ですから、もはやキリストの律法は苦痛ではなく、私たちの新しい生き方の光で

あり、指針になります。そもそも、旧約の律法を与えたのは全能主です。そして
、人間を罪の世界に閉じ

込めたのも全能主です。それは、初めから「お前は罪人だ」という事を思い知らせようとされたからです。

そして、全能主は、「創造の初めから律法を守る事のできない、どうにもならない罪人であった者たち」

対して、全能主の一方通行の愛で、イエス様を人間の罪の身代わりとして立てられ、その死によって、

人間を一方的に罪から救う道を開かれました。このように、心の奥底に魔物を抱えた私たちをキリストの

贖いを通して、キリストと共に死んだ者として、新しく再起動させて下さるのが、全能主のアガペーの愛の

計画であったのです。


(転)こうして、「人が行いによっては義とされない」ということを悟らせる為に、全能主は、律法によって

人を罪の中に閉じ込めました。そして、人は「自分がしたくないことをしている、惨めな人間であること」を

認めさせ、自分の方から全能主に助けを求め、信頼して行くという、「自発的な信仰の法則」に立つ事を

願われたのです。この「自発的な信仰」は、自分自身が罪人だという事を自覚し、こんな者のためにイエス

様が贖いをして下さったという事が分かった時に、初めて生まれてくる遜りの心なのです。
それが、天の

御国の世界だからです。例えば、最初の人アダムとエバが、エデンの園で何不自由なく暮らし続けていた

としたら、彼らは全能主の恵みを当たり前のものと思い、感謝や自発的な愛によって、「主に従います」

という気持ちを持つ事もなかったでしょう。ところが、人間が自分自身の愚かさを知り、その中でイエス・

キリストを通して与えられる一方的な全能主の愛を知った時、初めて目覚めるのです。即ち、義務感では

なく、「本当に感謝です」という気持ちから、自発的に全能主に従おうとする気持ちと、全能主に対する

信頼感が生まれてくるのです。
これが、「信仰によって律法を確立する」という事です。この生き方は、

ある意味で狭い道かもしれません。なぜなら、「自分はそこまでの気持ちを持てない」と思ってしまうから

です。それは、魔物に捕らわれた自我があるからです。その自我は、信仰を義務的にして、歪ませて行き

ます。それは、自分を主人公にしているその自我に、悪魔も働くからです。実は、これは、旧約聖書の時代

から続いていたテーマです。歴代誌に出てくるヨシャパテ王とアサ王は、最初は全能主に従って改革を

行った王です。しかし、最後には全能主に逆らい、高き所で偶像に生け贄を献げて全能主の怒りを受けたの

です。この高き所は元々、アブラハムがイサクを捧げた場所でしたが、ソロモンの時代以降、聖殿が

(もう)
けられたにも関わらず、外国の偶像が持ち込まれて、高き所で礼拝が行われ、民が肉の罪を発散する

遊び場所となり、汚されて行きました。これは、全能主の心を逆なですることです。ですから、全能主は

今日も私達の教会に、自発的に従って行く心が一番大切だと教えられています。こうして、私たちは長い間

「自発的な信仰の心」を学んできたのです。


(結)このように、律法というものは、「自発的な信仰の法則」によって確立されるものです。即ち、「自分の

自我はイエス様と共に死んだ」というアオリストの事実によって、自発的な意識で主に信頼し、従って行く

事です。これが「自発的な信仰の法則」です。どうか、この自発的でポジティブな信仰の心を持って、

イエス・キリストの贖いを感謝し、自発的な信仰の法則によって律法を確立して行く道に歩み出しましょう。


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