2026年5月10日
『わずかなプライドさえ捨てて、 主の前に遜り、全能主に近づく事』
マルコの福音書 16:1~4
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(起) マルコ16章のイエス様の復活の記事と、ヤコブ書4章8節の御言葉から、「僅かなプライドさえ
捨てて、主の前に遜り、全能主に近づく事」を学んで行きたいと思います。
まず、初めに全能主の存在について学びます。今日は、「褶曲」という曲がりくねった地層を見ていきます。
固い地層に力が加われば、地震が起きて砕けるか、断層となるだけで、曲がる地層になる事はありません。
ところが、現に地層が曲がりくねった形の褶曲という形で、地表に出てきます。これを進化論では、
「横からの圧力を長い時間受け続け、地層がひだのようになった」と言われています。しかし、地層が褶曲
するには、その地層がまだ柔らかいうちに、短期間のうちでなければなりません。固い地層では平行地層の
断層になるだけです。この肝心な部分において進化論に立つ科学者は、論理的な説明が出来ません。
しかし、聖書に示されたノアの大洪水によれば、容易に説明できます。聖書は、大水が引いて行った様子を、
「山は上がり、谷は沈んだ」(詩篇104:8)と伝えています。これは、大洪水によって出来た地層が、
まだ完全に固まる前に大きな地殻変動が起きた事を指し示しており、大洪水による地層が、まだ積もった
ばかりで柔らかい時であれば、地層はそのまま容易に曲がり得るからです。ヒマラヤ山脈は8,000mを
超えた山ですが、褶曲によって出来た山地です。しかも、その頂上には、海底にあるはずのたくさんの
アンモナイトの化石が表面に存在しています。「褶曲」という地形は、私たちに、地層が何億年も
かけて出来るとか、地層の中の化石が進化を表しているというような考えは、すべて空想に過ぎないとい
う事を語りかけているのです。しかし、聖書には全能主が成された大洪水の結果として、その時の真実が
記録されています。これは、理にかなった説明であり、矛盾はありません。それは、全能主の存在を
見事に説明する事なのです。
(承)さて、マルコ16章を見ていきますと、イエス様が墓に納められた後日の、安息日が終わった
早朝、三人の女たち(マグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、サロメ)が、イエス様の死体に香油を塗る
為に、墓に向かいました。墓に着くと、大きな墓石が既に転がされており、墓の中に入ると、そこには
御使いが座っていました。そして、女達に声を掛け、「イエスは甦って、ここにはおられません。今から
弟子達の所へ行って伝えなさい」と言われました。それで、女達は急いで弟子達に伝えに帰りました。
そして、9節を見ると、「イエスは甦って、まず最初にマグダラのマリヤに御自身を現された」とあります
から、この時の時系列は、ヨハネの福音書や他の福音書を見ると、女たちが弟子達に伝えに行った後、
ペテロとヨハネが墓に走って行った時に、マグダラのマリヤも一緒に墓に行った事がわかります。そして、
ペテロとヨハネは空になった墓を確認して引き返して行きましたが、マリヤは一人で墓に残りました。
その時、イエス様はマリヤに姿を現されたのです。こうして、一番最初に会って話が出来たのはマリヤ
でした。あれほど意気消沈していた弟子たちの中で、こんな特別な経験を味わったのは、弟子たちでもなく、
母マリヤでもなく、このマグダラのマリヤ一人だったのです。
(転)なぜ、イエス様は、まず最初にマグダラのマリヤに姿を現されたのでしょうか。それは、マリヤは、
イエス様に近づこうとする気持ちを誰よりも強く持っていたからです。女たちの内、彼女だけが二度墓に
行き、一人だけでその場に残りました。それは、「何とかイエス様に香油を塗りたい」という気持ち、
つまり「イエス様に心を向けていた事」の証です。ヤコブ4章8節に「全能主に近づきなさい。そうすれば、
全能主はあなた方に近づいて下さいます」とあります。私たちも、「まず自分の方から主に近づこうとする
気持ちを持てば、主も近づいて下さる」という事です。ところが、多くの人は、「自分のような罪人は
全能主に近づけない。しかし、『自分はこれをやりました』という功績によって主に近づきたい」と思って
います。即ち、お土産を持って行く事が、全能主に近づく近道だと思っているのです。しかし、そうでは
ありません。もし、自分に頼り、努力して、何ごとか出来るならば、自分で自分を救えば良いのです。
それならば、イエス様の贖いは必要なかったのです。しかし私達は、何も持って行く事のできない、「自分に
頼る事」も、「自分を信じる事」もできない罪人なのです。マグダラのマリヤは、その事をよく自覚して
いました。だからこそ、イエス様が現れた瞬間、イエス様にしがみつこうとしたのです。即ち、少しでも
努力して認めてもらおうとする、その僅かなプライドさえ、彼女には残っていなかったのです。私達は、
イエス様にしがみつく事しかできない罪人です。この世では、そういう者を見捨てますが、全能主は見捨て
ません。全能主は、イエス様を殺すまでの事をして、人間を救い出そうとされたのですから、「自分は何も
ない者です。イエス様しかないのです」という気持ちを持って近づいて来る者に対しては、全能主も近づ
いて下さいます。これが人間と全能主との関係なのです。
(結)人間は、どんなに能力がない者でも、「『自分はこれをやりました』というお土産を持って行く事に
よって受け入れられたい」というプライドを持っています。しかし、この僅かばかりのプライドさえ砕かれ
なければなりません。それは、罪人は全身が罪人だからです。ですから、自分は何もない罪人だという事を
心底思い知った者だけが、イエス様にすべてのことを依り頼んで行こうするのです。なぜなら、私達が
しがみつく所はイエス様しかありませんから。だから、ここで初めて主と心が一つになれるのです。
どうか、ここに立って下さい。僅かなプライドさえ捨てて、主の前に遜り、下手に出て、全能主に近づき
ましょう。そうすれば、全能主も私達に近づいて 下さいます。全能主が私たちに近づいて下さる幸いを、
味わう者とされましょう。
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