2026年5月3日
『どこまでも下手に出て、主の契約にすがり、
いつ死んでも後悔しないように、今を信仰に依って生き抜く事』
マルコ 16:24~31
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(起) マルコ14章のペテロの裏切りの記事から、「罪人の感情によって、いつ裏切るか分からない自分の
恐ろしさ」を認め、こんな魔物を抱えた自分を覚えつつ、「どこまでも下手に出て、主の契約にすがり、
いつ死んでも後悔しないように、今を信仰によって生き抜くこと」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、マルコ14章26節から見て行きますと、イエス様は弟子達に対して「あなた方は皆、今夜
わたしにつまずきます」と警告されました。ところが、ペテロは「たとい、あなたと一緒に死ななければ
ならなくても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」と、力を込めて誓いました。ところが、
実際はどうだったのでしょうか。イエス様が捕えられた後、自分の身も危険だと思ったペテロは、「イエス
様を知らない」と三度も言い、イエス様を裏切りました。しかも、彼は少し前の8章でイエス様が「これから
わたしは、苦しみを受け殺される」と前もって言われた際、「そんな事があってはなりません」と言って、
正義感を持ってイエス様を諫めました。その時、イエス様はペテロを叱り、「サタンよ。引き下がれ。
あなたは全能主の方に心を向けないで、人の方に心を向けている」と言われていたのです。ペテロはこの時に
「自分は、何でも分かっているようなつもりになってはいけない」という事を悟り、へりくだるべきだった
のです。ところが、ペテロは14章でも自分自身の正義感を表し、「たとい、皆の者がつまずいても、
私はつまずきません」と言い切りました。他の弟子たちも、皆同じように言った後で、全員がイエス様を
裏切ったのです。これこそが人間の醜い罪の姿です。
(転)では、私達はどうでしょうか。実は、「私たちも彼らと全く同じ者」で、根深い「裏切り」の性質が
あるのです。私たちは、「患難時代に入った時、自分は絶対に獣の印は打ちません。たとえ死ぬ事があった
としても、全能主を信じます」と、言うかもしれません。しかし、実際に追い詰められて極限状態に置か
れた時、本当にその決意を貫き通す事ができるでしょうか。普段でさえ、ちょっと怒られただけで、自分を
守り、すぐ拗ねたり、反発したりしている者が、獣の前に出た時には「信じますという、自分の決意を
通す」と、言い切れるのでしょうか。それは唯、「言い切らないとダメだ」と勝手に思っているだけです。
しかし、そういう私たちの正義感、決意、熱意は、全く当てにならないという事を、ペテロは実際に味わった
のです。また、そのような人間の裏切りの心は、旧約聖書を通して何度も明らかにされています。例えば、
第Ⅱ歴代誌14章以降に出てくるアサ王は、当初は、異教の祭壇や高き所を取り除き、偶像を壊して全能
主の前に良い事を行っていました。しかし、晩年には、彼は全能主に頼る事を止め、人を頼ったのです。
ソロモンやその他の王達も、皆そうですが、最終的には自分の感情に従い、全能主との約束を破り、裏切る
という場面がたくさん出てきます。このように、人間は最後には自分の都合で簡単に裏切ってしまう者なの
です。
(結)しかし、こんな裏切り者の私達に対して、イエス様は十字架で自らの体を裂き、血を流され、贖いを
するという契約を、最後の晩餐の時に結んで下さいました。この契約は永遠のものです。それなのに、
その夜、弟子達は皆イエス様を裏切って逃げて行きました。ところが、イエス様は最後の最後まで弟子達を
裏切りませんでした。即ち、イエス様はこの贖いの契約を破棄されなかったのです。ですから、私達はこの
イエス様の永遠の契約を信頼して信じ、もう薄ペラな自分の正義感に頼って大言壮語し、
偽りのプライドに立つ事は、止める事です。自分の罪深さと、自分の意志の弱さを正直に認め、自分を
徹底的に否定し、「言うは易く行うは難し」という事実を認めて、「自分の肉の真面目さ、自分の肉の
正義感から離れ、偽りの自分の熱意や決意は無力だ」と悟るのです。こういう考え方は、単なる自分勝手な
妄想であり、空想に過ぎないからです。事実、過去においてどれだけ大言壮語を吐き、恥を掻いて
来た事でしょうか。私達は、「どこまでも信じて行きます。これだけは絶対に捨てません」と言いながら、
最後には裏切るという要素を隠し持っている罪人に過ぎないのです。その魔物を抱えた罪人なら、いつも
遜って「もう、こんな魔物を抱えた罪人です。どうか最後まで信じ続けていけるようにお護り下さい」と、
常に祈って行くべきです。このように、私たちはいつ裏切るか分からない感情的な人間です。この罪の
恐ろしさを持っている者であることを自覚しつつ、「最後まで信じ切れるように助けて下さい」という心を
いつも抱いて行くことは、弱気な信仰ではありません。それが在っての遜りですから、お願いし続けて行く
べきです。そして、真理の二面性として、どこまでも下手に出て信じ続けていく、「信仰の大見得も併せ
持って行く」べきです。このように、どんな場合にも、心から遜って主の契約にすがり、「いつ死んでも
後悔しないように、今を信仰によって生き抜いて行くよう」、心がけて行きましょう。
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