2026年4月26日
『確固とした信念を持って、 今を信仰によって生き抜いて行く事』
マルコの福音書 7:21~22
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(起) マルコの福音書7章21、22節の御言葉から、感情から離れて全能主の理屈に立ち、聖書を
どこまでも信じて、「確固とした信念を持って、今を信仰によって生き抜いて行く事」を学びたいと
思います。
初めに、人が声を出す為の器官である声帯について語りたいと思います。私たちが常に使っている
声帯は、長さ2センチ、厚さ数ミリの小さな組織によって作られています。この小さな組織が、
様々な声の高さ、音量を出しているのです。声帯とは、喉にある2枚のヒダで、ここに肺からの息が
当たり、振動する事で、声の元となる音が作られます。この振動が多いと高音となり、少ないと低音に
なります。声帯は1秒間に平均100回以上振動しており、訓練された人ならば、1秒間に1000回
(100dB以上)車のクラクション並の音を出す事ができます。何故それほどの振動を、たった
2センチの声帯が出す事が出来るのでしょうか。またその振動に耐える事ができるのでしょうか。
それは、声帯はしなやかな構造をしており、その振動を口の空間や鼻の空間による共鳴によって
増幅しているからです。声帯の内部は三層構造になっており、ただ振動するだけの膜ではなく、
支える層もあるので、より破れにくく、よく振動する仕組みになっています。そして、その声帯から
出た音を口や鼻の空間で共鳴させる事によって、オペラ歌手のように大きく響き、音の大きさ、音色が
調整されるのです。このように、声帯は小さな器官でありながら、高速かつ精密に働き、様々な豊かな
声を生み出しているのです。このように精巧に組み上げられた器官が、どうして偶然や進化で、
出来あがるでしょうか。いいえ、出来ません。これは、人知をはるかに超えた全能主の叡智に
よって創られた事の証明であり、証なのです。
(承)さて、私達の命が全能主の手によって創られた最高の傑作であるならば、私達は全能主の考えに
基づいて生き、全能主の役に立つ者とならなければなりません。これは理屈に基づいた話です。ところが、
普段の私達は、全能主の理屈を無視して、「生まれながらに持つ、自分の感情が自分自身だと思い、
自分の感情的な理屈で考えます。」それは、「心の中にある感情は、自分自身であると思い込んでいる」
からです。それ故に、この感情的な判断が、自分の理性を超えて、自分の生き様となっているのです。
これでは、不信仰が当たり前になってしまいます。それは、聖書の理屈を頭だけの世界に留めて、自分の
感情に従うからです。しかし、クリスチャンにとって、全能主は私たちの命の創造主です。その理解に
よって信仰が始まったのなら、自分の理屈ではなく、聖書の理屈に従って生きて行くのが正しいはずです。
それなのに、「聖書よりも自分がどう思うかという、その時その時の感情で生きている」のは、理屈に
合いません。例えば、自分の気持ちが穏やかな時は、人に対して親切な対応をしますが、自分の気持ちが
イライラしている時は、人に対して横柄になり、無視さえするのです。それが自分の当たり前の生き方だ
と思うようになっています。マルコ7章21~22節を見ますと、「人の心の中から、悪い思いが出てき
ます。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴」とありますが、
私達の心の中には、この罪深い感情が入っているため、その感情に従った顔つきや言葉の語調が出てくるの
です。しかし、「それが自分だから、仕方ない」と言って、罪深い感情を正当化するのです。それでは、
生まれながらの本能のままで生きている動物と同じです。ということは、私たちは、そういう感情
任せな人間ではいけないのです。これでは「確固とした信念を持ったクリスチャンとして、今を信仰に
よって生き抜いて行く事」ができません。もし、私たちが全能主を信じていると言うなら、全能主の
考えに従って考え、行動するのが理屈です。しかし、私達の命が全能主によって創られたという
悟りを持っていても、普段の考え方が自分勝手な感情に縛られていたら、その人は全能主を信じて
いることにはなりません。
(転)では、全能主を信じている信仰とは、どうあるべきでしょうか。もし、私たちがどこまでも
全能主を信じて生きて行きたいと思うなら、全能主の御心に適った理屈で生きて行くのが、
正しい信仰のあり方です。逆に、全能主を信じていると言いながらも、感情に頼って自分勝手に
生きているなら、その人は、いつまでも罪との縁を切れず、未信者時代と同じ生き方をしていることに
なります。そんな身勝手な不信仰者でいいのでしょうか。全能主は、「私たちの感情に基づく罪と、その報い
から救って下さった方です。」しかも、その救いは、全能主が成された感情に基づくものではありません。
それは、唯一絶対の全能主が計画された、キリストによる「アオリストの贖い」です。この救いは、
理屈から出たものであり、永遠に通用する理屈です。ですから、私達がこの全能主の理屈に同意
すれば、その中で生きて行く事ができるのです。即ち、いくら感情に囚われたとしても、全能主の
理屈に立てば、不安から解消されます。こうして、日々、考え方を切り替えて、感情を自己管理して
行けば、私達の心は安定して行きます。
(結)ということで、私達は「自分の感情が、自分そのものだ」と思ってはいけません。例えば、
礼拝で全能主の理屈に基づいたメッセージを聞いて、その時はその通りだと思えたものでも、礼拝が
終わるとすぐ、「我に返って、自分の感情に戻るのです。」すると、聞いたメッセージも、その瞬間に
自分の心から消えて行きます。ですから、何年経っても、自分の信仰は成長しないのです。そして
「自分の感情が自分そのものだから、どうにもならない」と言い切って、不信仰の虜になり、表面的な
信仰者になるのです。そういう人は、患難時代に入ったら、その時の感情次第で獣に従ってしまうでしょう。
私達は、イエス様のアオリストの贖いによって、新しい命の中で生きる者とされたのです。ならば、
自分自身は、「もう感情任せの自分ではなく、全能主の考えに合わせて従っていく者だ」という
生き方に変えるべきです。即ち、感情任せの自分を徹底的に否定し、聖書にある考えに基づいた、理屈で
生きる人間に変えて行くのです。この考えに立って全能主を信じ、素直な自分に戻って、聞き従う者に
なってください。全能主は絶対ですから、一番信頼できる御方です。その信頼できる御方の理屈に
合わせて行くのが、クリスチャンにとって一番安全な道です。どうか、感情から離れた自分こそ、
本当の自分だと認識を新たにして、感情任せの自分ではなく、全能主の理屈に立って「どこまでも
全能主の理屈を信じて生きて行く」という、確固たる信念を持って、今を信仰によって生き抜いて
行こうではありませんか。
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