2025年4月19日
『残りの生涯、全能主に使われ易い者として、 この命を全能主の栄光のために使って頂く事』
イザヤ43:7、マルコの福音書5:1~20
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(起) イザヤ書43章7節「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしが
これを創造し、これを形造り、これを造った」という御言葉と、マルコ5章の記事から、「残りの生涯、
全能主に使われ易い者として、この命を全能主の栄光のために使って頂く事」を学んで行きたいと思い
ます。
まず、創造主の存在を、「膀胱の仕組み」を通して考えていきます。膀胱の働きは、腎臓から送られてくる
尿を溜め、体外に排泄することです。このために最適化された仕組みが数多くあります。膀胱の袋部分は
排尿筋で出来ており、尿道につながる出口部分には内尿道括約筋があり、その先に外尿道括約筋があり
ます。内尿道括約筋は、蓄尿時は収縮して出口を閉め、排尿時は緩んで出口を開けます。この働きは
自律神経で制御されて、蓄尿と排尿ができるのです。こうして、膀胱は、ある程度尿が溜まると脳へ
信号を伝達し、尿意を起こさせます。ところが、尿意をもよおしても、人間はすぐに排尿しません。それは、
脳が適切な排出場所があるかを瞬時に判断し、無いならば排尿を我慢させるからです。この自分の意志で
動かせるのが、外尿道括約筋です。それは、尿道を締め付けて尿漏れを防ぎ、強い尿意に対しても「尿の
ストッパー」として活躍します。これらにより、尿意を感じればすぐに排尿する訳ではなく、適切な場所
での排尿ができるようになっています。以上のように、膀胱は随意筋と不随意筋(自分の意志で
動かす筋肉と自動制御される筋肉)によって調整され、精密な排尿の仕組みが施されています。これは、
単に偶然に仕組まれたものと考えるには無理があり、そこには「知的デザイナーによって、人間が快適な
生活を送れるように意図して創られた」と考えなければ理屈に合いません。この知的デザイナーが「全能主
ヤハウェ」であると、聖書ははっきり示しています。全能主は、叡智を以て最適な仕組みを創造されました。
ですから、私たちの身体のどの部分をとって見ても、全能主の存在を明瞭に示しているのです。
(承)さて、イザヤ書43章7節を見ますと、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光の
ために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」とあります。ということは、「私達の
命は全能主によって、全能主の栄光のために創られたものである」ということです。そうであるならば、
「私達は全能主の栄光のために生き、全能主に使われ易い者」にならなければ意味がありません。その事に
ついて、マルコ5章から見て行きます。ここには、悪霊に憑かれた人が出て来ます。彼は鎖で縛られても
それを引きちぎったり、夜、昼絶え間なく叫び続けたり、石で自分の体を傷つけたりしていたのです。
ところが、イエス様によって悪霊を追い出され、癒やされた彼は正気に戻って「イエス様にお供したい」と
願いました。しかし、イエス様はそれを拒まれたのです。それは何故かと申しますと、主の為された奇跡が
あまりにも驚くべきものであり、その奇跡だけが一人歩きして、イエス様が自由な働きが出来なくなって
しまうからです。案の定、彼はイエス様の奇跡をデカポリス地方に言い広めました。その為、イエス様が
町々に入れなくなってしまったのです。即ち、彼は、イエス様のお考えよりも、自分の感情を優先し、「この
方がいいだろう」と思い、自分の思いを通して、主の働きを阻害してしまったのです。主はこの事を
案じて、彼を用いようとしなかったのです。それは、「彼が自分本意の考えに立つ者であること、また、
主の心を理解せず、自分の感情の判断が正しいと思う者である事」を、主が見抜いておられたからです。
これでは、主に使われ易い者とはなれません。主はその事を見抜いておられたので、彼が、主のお供をする
ことが許されなかったのです。
(転)では、イエス様に使われ易い者となるには、どうしたらいいのでしょうか。それは、自分の感情を
優先して従う者ではなく、イエス様の考えを受け止めて従って行く者でなければ成りません。マルコ7章
28節では、ツロの女はイエス様に拒否されたにも拘らず、下手に出て「お言葉通りです」と主の考えを
受け止めて、それから自分の願いを伝えました。するとイエス様は、受け入れようとしなかった者でも、
彼女の下手に出る心を知って、その女の願いを叶えました。それは、自分中心に勝手な願いを押し付けたの
ではなく、まず主の御心を受け留めたからです。このように、主の前に受け入れられる者とは、まず主の
御心を感情ではなく、理性的に考えて、受け留める者でなければ成りません。そして、主の側に立って、
肯定的に受け入れ「お言葉通りです」と、従う心を持つことです。そうでなければ、表面的に従う者となり、
考え方にズレが起こり、いずれ反発して逆らう者になってしまうからです。ですから、「使われ易い者」とは、
主の思いをまず理性的に受け留め、それを肯定的に考えて従って行く事です。それは、まず遜って行く心が
なければなりません。その為に必要なことは、「聞き従う心を持っているかどうか」ということです。
ところが、人間は生まれ乍らに自分勝手で、全能主の御心を汲もうとしないのです。そういう者が、幾ら
主に従って行きたいと願っても、役には立ちません。どこまでも、仕える者は、主の考えに合わせることの
出来る者でなければ成りません。しかし、人間の感情の根は、それを嫌います。その性質が、「アダムと
エバが悪魔に騙され、全能主の言葉に逆らった結果」なのです。その時から、「全能主に逆らう気持ちや、
従いたくないという気持ち、自分の思い通りにしたい」という反抗心が人間の中に入り込みました。
それ故に、私達はその場その場の感情に任せるようになり、理屈に基づいた考え方をせずに、自分勝手な
気ままな生き方をするようになったのです。それは、間違っています。私達の感情は、悪魔の影響を受けて
いる自分勝手な判断になるからです。ですから、私たちが主に従おうと思うなら、自分の判断ではなく、
主の判断に任せるべきです。もし主の判断が分からない場合は、忍耐して主が明かされるまで待つのです。
手っ取り早く自分の判断で行動すれば、悪霊を出された者と同じになってしまうからです。私たちは、
自分には物事を考える能力が与えられています。ならば、感情に依らず、聖書の理屈に基づいて考え、
判断をして行くべきです。人間は「間違いだらけ、分からない事だらけ、できない事だらけ」なのです。
ですから、私達は、自分を感情任せにせず、主の前に「お言葉通りです」と、下手に出て、まず、理性的に
受け留めて聞き従って行く心が大事なのです。
(結)私達は、全能主の栄光のために創られたのですから、全能主に使われ易い子でなければなりません。
自分の感情に立って、「自分はこう思う。これが全能主のためだ」と勝手に決めつけて考えてしまうような
者では、主の役に立ちません。まずは、自分の罪の根を認めて、自分を徹底的に否定し、どこまでも主の
お考えを第一にして判断をして行こうという決断をして、「お言葉通りです」と素直に聞き従って行く心に
変えていきましょう。どうか、残りの生涯を全能主に使われ易い子として、全能主の栄光のために使って
頂きましょう。
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