2026年4月12日
| 『どこまでも主を信頼し、主の使命の中で生きて行く事』
第Ⅱ歴代誌 6:36~39
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(起) 第Ⅱ歴代誌6章、7章から、「キリストのアオリストの贖いを確信し、どこまでも主を信頼し、
主の使命の中で生きて行く事」を学びたいと思います。
まず初めに、全能主の存在を、人の骨の仕組みから見て行きたいと思います。骨はただの固い棒では
なく、体を支える支持機能、体を動かす運動機能、内臓を衝撃から守る保護機能、骨髄で血液を造る造血
機能、カルシウムを貯える貯蔵機能など、様々な働きをしており、ただの固い棒ではなく大切な臓器なの
です。ならば、カルシウムよりも丈夫で、折れてしまう事のない素材の方が良いのではないでしょうか。
しかし、骨はカルシウムとコラーゲンで出来ており、軽く丈夫で、また、しなる事で、衝撃を吸収できるの
です。例えば、車の前と後ろがぶつかった時、あえて潰れて客室への衝撃を吸収している仕組みの
ように、骨にもあえて折れる事で衝撃を吸収し、大切な内蔵を守るように仕組みが備えられているのです。
また、日々の運動の衝撃でダメージを受けて劣化していく骨を、まず「破骨細胞」が破壊し、
次に「骨芽細胞」の働きによって、新しい骨を造り上げて、全自動で修復する機能も備えられて
います。これらの働きは、他の素材や現代の医療技術では代用が出来ません。果たして、これらの考え
られた仕組みや働きが、偶然に出来上がるのでしょうか。それを聖書では、はっきりと「全能主の御手が
私を造り、私を形造りました」と、全能主が人の命を創造されたことが記されています。骨ひとつ
見ても偶然には出来ない叡智の作品です。それは、全能主によって存在している命であることを
証明しているのです。
(承)さて、私達の命をお創りになられた全能主は、唯一の救い主です。私達はその意識をはっきりと
持っていなければなりません。その事について、第Ⅱ歴代誌6章から学んで行きたいと思います。ダビデの
子ソロモンは、全能主の神殿を完成させた後、祈りを捧げました。その祈りは、「民が罪を犯した場合、
悔い改めて祈るなら赦して下さい」という、全能主に対する救いの懇願です。そして、その祈りに対する
全能主の応答が7章に出てきます。7章12~18節では前向きな良い応答ですが、7章19~22節では
「もし、あなた方が背いて、わたしの掟と命令を捨て去り、他の神々に仕え、拝むなら、あなた方をこの地
から根こそぎにし、聖別したこの宮をわたしの前から投げ捨てる」と言われました。それで、実際どう
なったのかと言いますと、ソロモンは全能主に背き、外国人の妻達が持ち込んだ偶像を拝んだ為、神殿は
バビロンによって壊され、ユダ族はバビロンに捕え移されました。その後、クロス王がバビロンを支配した
際に、民はイスラエルに帰され、新たに神殿を作り上げました。ところが、その第二神殿もローマによって
壊されてしまい、今日神殿はありません。この事から分かる事は、人間というのは、全能主の御心に
適った事を行なおうとする気持ちはあっても、それを行う事はできないという事です。即ち、「こうします
から、こうして下さい」というギブ&テイクの律法によっては、人は救われないという事です。なぜなら、
私達は罪の根を初めのアダムとエバから受け継いでいるからです。
(転)では、私達はどうしたら良いのでしょうか。新約聖書を見ますと、感謝な事に「私達は律法から
解放された」と書いてあります。(ロマ6:14、ロマ7:6、ロマ10:4、ヘブ7:18、ヘブ10:1、
ヘブ10:9、エペ2:15)例えば、ロマ書7章6節を見ますと、「しかし今は、私達がキリストと共に
死んだ事により、私達を捕えていた律法から解放されました」とあります。私達は今現実には死んで
いませんが、「既にキリストと共に死んだ者として見て下さっている」というのがギリシャ語のアオリスト
時制です。ですから、全能主は死んだ者に戒めを課すことは出来ませんから、クリスチャンは律法から
解放されており、律法によって裁かれる者ではないのです。また、ヘブル9章7節を見ますと、旧約時代の
人々は、罪を犯したら、自分の罪を動物に担わせ、動物によって罪を贖うという事をしていま
した。しかし、罪を犯さない人間は一人もいないのですから、人間は毎年、罪のための生け贄をささげなく
てはなりませんでした。ですから、御言に「毎年同じような生け贄をささげても、律法は全能主に近づく
人々を、完全にする事はできなかったのです」
(ヘブル10:1)とあります。つまり、律法では人間の
罪を完全に解決する事はできなかったのです。ですから、全能主は、動物を人間の代わりにするという
律法を廃止し、罪のない御自分の御子イエス・キリストに人間の代わりに罪を担わせて贖われたの
です。このように、私達にとってイエス様のアオリストの贖いがありますので、律法から解放されているの
です。これがキリストの福音であり、救いなのです。ならば、イエス様に感謝し、主の為に生きて行く事が、
信じて救われた者の生き方になるのではないでしょうか。
(結)このような訳で、私たちは自分の現在の肉の弱さを見て嘆いても仕方ありません。幾ら自分に嫌悪
感を持ったところで、自分の罪は消えないからです。私達は、罪人である自分を完全に認め切り、力不足な
自分を受け留めた上で、イエス様のアオリストの贖いを信じ、「ありがとうございます」という気持ちを、
私たちの命の創り主に対して抱き、生涯を全能主のために生きて行くのです。聖書に書いてある事は事実
なのですから、確信を持って信じ、どこまでも主を信頼し、主の使命の中で生きて行こうではありませんか。
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