2025年4月5日
『自分自身を生きた聖なる供え物として献げ、 全能主にあって、この尊い命を使って頂く』
ヨハネの黙示録 21:8、ローマ12:1
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(起) 黙示録21章8節とローマ12章1節の御言葉から、疑いと捻くれた心からではなく、素直に
信じる心で、「自分自身を生きた聖なる供え物」としてささげ、全能主に使っていただく事を学んで
行きたいと思います。
さて、創造主の存在について、まず世界の地層はどのように出来たのか考えていきます。聖書にはノアの
大洪水によって全世界が大水に覆われ、この大激変の際に土砂が掻き回され、短期間の内に地層が水平に
出来上がったことを示しています。一方、進化論に立つ科学者は、地層が1m出来るのに1万年~10万年
ほどかかると見積もり、下にいくほど古い年代の地層だと仮定して、何億年前からという年代表まで作り
上げます。果たしてそうでしょうか。今日、水平地層は世界中で確認できますが、それが見事に確認
出来るグランドキャニオンでは、深いところで1.8kmもの厚さの地層を観察できます。これらの地層は
非常にきれいに重なっており、水平でまっすぐであることが分かります。この地層の出来方は、実験でも
再現できます。色々な種類の土砂を水と一緒に瓶に入れてかき混ぜますと、翌日には、土砂の種類ごとに
水平な層が何層も出来上がっているのです。そして、層と層の境は、自然界にある地層とそっくりです。
これは地層がノアの洪水時のように大量の水によって出来たことを示しています。一方、進化論科学者の
言うように、地層が何万年もかかって出来たとするなら、その間に風雨による浸食などで盆地や池、
川などが出来てでこぼこになり、地表面を水平に保つことは不可能です。さらに言えば、地質年代表の
順番通りの地層は、自然界に存在しません。その証拠に、エベレストの頂上付近でも、アンモナイトの
化石が見つかっているのです。これは、進化論者には説明できません。しかし、ノアの洪水後に起こった
隆起であるならば、説明出来ることです。即ち、化石も地層もその激変時に出来たのであって、ノアの
大洪水の爪痕であることが分かります。このように、自然界の観察によれば、聖書の記録が創造主に
よる疑いのない真実であることが見えてきます。即ち、自然界は創造主の存在を明白に証言しているの
です。
(承)さて、創造主が存在していること、また、グランドキャニオンのような大きな水平地層が存在して
いる事を見て行きますと、その存在を証言している書物は、聖書しかありません。という事は、私達の地球
上で起こっている出来事の根拠を、聖書はハッキリと証言しているという事です。私達人間の命を見て
みても、驚くほど複雑に仕組まれていますが、こんなにすごい仕組みを持った人間が、何故偶然に存在
できるのでしょうか。偶然には秩序はありません。しかし、人間の命と地球上は法則と秩序で満ちており、
偶然の代物ではありません。人間の命の元素は、地の塵です。そのことは、聖書を見ると「唯一の全能主が、
土の塵で人間を形造り、命の息を吹き込んだ」と書いてあります。土の塵自体はただの物質ですが、
そこに命を吹き込む事のできる、力ある全能主がおられるなら、土の塵で形作られた人間が生きる者となる
事は可能です(創世記2:7)。ですから、私達は「全能の御方がおられる」という前提で、地層の事も
人間の命の事も理解する事ができるのです。
(転)しかし、これを信じるか信じないかはその人次第です。全能主は私達の命を創られましたが、
だからと言って、強制的に信じさせて従わせるような事はされません。そのことを、信じる者もいれば、
信じない者もいます。しかし、クリスチャンは信じる者となったのです。信じる者には、全能主の素晴らしい
幸いな約束が黙示録の中に記されています。それは、「全能主の幕屋が人と共にあり、全能主が人と共に
住み、人は全能主の民となり、全能主自ら人と共にいて、人の目から涙を全く拭い取って下さる。
もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」(21:3~4)、という世界に入れて下さるという
約束です。今この地上では、辛い事や悲しい事ばかり起こります。しかし、全能主がおられるなら、
この約束は実現されます。即ち、全能主を信じ、「勝利を得る者」となれば、こういう世界に入れて
戴けるという事です。まさに、「私達の国籍は天にあります。そこから、救い主、主イエス・キリストが
来られるのを、私達は待ち望んでいます」(ピリピ3:20)というのが、クリスチャンです。この事を
受け入れるか受け入れないかは、私達一人一人の心に掛かっています。どこまでいっても、心を開いて
信じる者だけが、この世界に入れて貰えるのです。信じなければこの約束は私達にはありませんし、イエス
・キリストを待ち望む事もできません。即ち、イエス・キリストが私達の罪の償いを全部成し終えて下さった
という事も、私達にとって関係のない事になってしまうのです。普通なら、「聖書に書いてある事はその
通りだ」という事を理解できれば、そこには理屈がありますから、それをそのまま受け入れて信じます。
ところが、それでも受け入れないで疑う人は、捻くれているのです。そういう人は永遠に疑い続けて行き
ます。「臆病な者、信じない者」(黙示録21:8)は、天に繋がりません。しかし、事実を事実として
受け留める誠実さを持って、それを信じると決めれば、素直な心を持って受け入れるでしょう。その素直な
心を持って受け入れる者だけを、全能主は集めようとしておられるのです。
(結)全能主がおられるという事は、否定できない事実です。もしそれを否定したら、私達にとって自分の
存在の意味は、たまたま生まれてきた者にすぎなくなります。そこには、生きて行く目的もありません。
しかし、私達はそのような「彷徨う者」ではなく、はっきりと命の主に還ることを目的として、
全能主を信じて、天を目指して行く事のできる者なのです。ならば、「後ろのものを忘れ、前のものに
向かって懸命に努力し、ひたすら目標を目指して走って行こうではありませんか」(ピリピ3:13~14)。
そして、全能主のために、自分自身を「生きた聖なる供え物」としてささげて行きましょう。これは律法
ではなく、全能主の恩寵による勧めです(ロマ12:1)。即ち、全能主が私達に心を掛けて
下さったが故の勧めです。どうか、疑い、捻くれて行く世界ではなく、素直に信じる心で「自分自身を
生きた聖なる供え物」として献げ、全能主にあって、この尊い命を使って頂こうではありませんか。
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