2026年6月21日
『私達は心に血の注ぎを受け、
邪悪な意識と体を、きよい水で洗われたので、
主を信じる確信に満たされ、全能主に近づいて行く』
ヘブル人への手紙 8:1~8、10:22
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(起) ヘブル書10章22節の御言葉から、「私達は、心に血の注ぎを受けて、邪悪な意識と体をきよい
水で洗われたのですから、主を信じる確信に満たされ、全能主に近づいて行く」という事を学んで行きたいと
思います。
まず、全能主の存在から学びます。「鼻の仕組み」を見ていきますと、鼻は、嗅覚器官であると
ともに、乾燥した空気や細菌から肺を守る生命維持の最前線器官です。鼻腔では、肺を守るため吸い
込む空気を加温、加湿し、細菌やゴミなどの捕獲、いわゆる清浄機の役目を担っています。この鼻腔
内壁は粘膜に覆われた三層構造になっており、内壁に張り巡らされた毛細血管によって効率よく、
これらを同時に行っているのです。また、鼻腔の上層部には匂いを感じるセンサーがあります。嗅細胞
といって、切手ほどの大きさのスペースに500万以上の嗅細胞が配置され、匂いの分子をキャッチし、
それを電気信号に変えて脳に送り、数千種類以上の匂い分子を嗅ぎ分け、24時間体制で危険な分子を
監視しています。また、匂いを知らせるだけでなく、味覚も判断し、食生活を豊かにします。鼻の配置は
特に重要で、絶妙な位置に配置されているのです。例えば鼻が口のすぐ上にあることで、物を口にする前に
匂いを検知し、善し悪しを判断します。この仕組みは知的デザインの賜物であり、決して偶然の代物
ではなく、この知的デザイナーの存在こそが、聖書が記している通り、人を創造された「全能主の存在」を
雄弁に物語っています。
(承)さて、全能主は、この人間との交わりの為に人を創造されました。しかし、人間は全能主に逆らって
罪を犯した為、その罪の贖いをする場所として、神殿の中に聖所と至聖所が設けられました。そして、
人の罪の償いの為に、無数の動物たちが身代わりとして、罪の生け贄となって血を流し、贖いと清めが
成されていきました。ところが、動物の血による償いには、きりがなく、根本的な解決にはなりません
でした(10:11)。そこで、全能主は人間との間に新しい契約を結ばれました。この契約は「遺言」
と同じで、契約を結んだ人が死んだ後に効力が発生します。即ち、全能主の契約の実現として、御子が
死んだことで、贖いの効力が発生し、全能主と人間の間の契約が実行に移されて罪の償いがなされたのです
(10:10)。しかも、このイエス様の贖いは永遠に有効です(10:12)。何故なら、山羊と子牛の血に
依ってではなく、全能主の御子による、完全な身代わりの生け贄だったからです。ですから、イエス・キリ
ストが、ただ一度で完全な贖いを成し遂げて下さった事により、私達が罪を犯す度毎に、殺されて行く
動物たちのうめき声を聞く事はなくなり、私達には永遠の贖いが完成されたのです(10:14)。また、
22節には「心に血の注ぎを受けて邪悪な意識と体をきよい水で洗われた」とあります。14節の「完成
した」という部分と22節の「洗われた」という部分は「完了形」で書かれていますので、全能主が一方的に
「イエス様によってお前達の罪の贖いを終えた」とアオリスト形の表現で表記し、私達の邪悪な意識や
体の汚れを洗いきよめ、その贖いの御業を完了して下さったのです。なんと感謝な事でしょうか。
(転)しかしながら、この救いの御業が私達の身に実現するのは、イエス様の再臨の時です。ですから、
今現在の自分の状態を見ると、生まれながらの罪深い性質は何も変わっていません。それは一生涯負い
続けて行くべきもので、決して自分の罪を棚上げしてはいけないのです。しかし、人間は生まれながらに
嘘をつき、表面だけ飾って自分を良く見せようとします。それは、自分自身の嫌な部分を見たくないから
です。また、他人にもその部分を表して、馬鹿にされたくないからです。だから、嘘をついたり言い訳したり
して、自分の罪を弁解しようとするのです。しかし、それをやり続けて行くなら、イエス様の贖いが他人事に
なり、信仰の確信を失ってしまいます。しかし、自分の罪深い性質を棚上げせずに、「自分が醜い人間だ
という事実を誤魔化さず、へりくだって、そのまま受け留めて告白して行くならば、」イエス様の贖いを
心から感謝できるのです。そして、「こんな罪人を愛して下さり、ありがとうございます」と、再起動して
行くなら、キリストの贖いの血の故に、全能主に近づいて行けるのです。
(結)私達は、「正しい人間にならなければ全能主に近づけない」と考えがちですが、そうではありません。
どんなに罪人であっても、全能主に近づく事ができるのです。なぜなら、「イエス様の永遠に有効な生け贄が
献げられている事実があるからです。」それ故に、全能主の目から見ると、私達がへりくだって全能主に
近づくことは、全能主の喜びでもあるのです。それは、その交わりの為に創られた者であったからです。
ですから、この事実を認め、心に結び付けた上で、「私には、このイエス様の救いがあります」と確信に
満たされて行くのです。そうすれば、私達は自分の罪も失敗も全部認めた上で、私たちの「信仰を告白する
御方」、即ち、大祭司であるキリストに集中できるようになります(3:1)。こうして、私達は心に血の
注ぎを受け、きよい水で洗われたのですから、益々確信を深め、主を信じる「信仰の法則」に立って、
全能主に近づこうではありませんか。
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