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2025年3月8日

自由をもたらす完全律法とは何か

ヤコブ 1:25 


(起) ヤコブ1章25節から、「自由をもたらす完全な律法」とは何であるかを理解し、「キリストに

対して、一方通行の愛の心を持って従って行く事」
を学んで行きたいと思います。


 初めに全能主の存在を「人体の鼻の働き」から見て行きたいと思います。鼻には匂いを嗅ぎ分ける嗅覚

肺に酸素を取り込む呼吸、また取り込んだ空気中のゴミやウイルスを排除する免疫などの働きがあり

ます。それぞれ見て行きますと、まず、匂いの正体はガスではなく、匂い分子という化学物質であることが

分かります。そこで、嗅覚には(きゅう)細胞(さいぼう)が400種類もあり、この匂い分子を()粘膜(ねんまく)キャッチして、それを

電気信号に変換して脳に送ると、なんと数千種類もの匂いを嗅ぎ分ける事が出来るそうです。更に危険な

匂いに関しては、脳が瞬時に察知して危機を脱するように働きます。次に、呼吸する際には、空気中のゴミや

ウイルスを
鼻腔(びこう)()粘膜(ねんまく)吸着し、線毛や粘液(鼻水)によって排除します。また、()粘膜(ねんまく)は常に粘液が

分泌されており、空気を加湿・加温することで、肺を保護する仕組みが備えられています。また、左右の

鼻腔の空気の通りが交互になるように調整して、()粘膜(ねんまく)にある毛細血管の膨張と収縮を全自動で機能を回復

させる仕組みが備え付けられています。また、免疫の働きについては、ウイルスを中和する抗体や、マクロ

ファージやリンパ球という免疫細胞が鼻の中に存在し、(ほこり)やウイルスなどから身体を守る免疫システムが

あります。もし免疫システムが備え付けられていなければ、すぐに病気にかかり、まともに生きていく事が

出来ません。果たしてこのような仕組みが偶然に出来上がるものでしょうか。鼻の働き一つ見ても、人が

全能主の御手によって創造された事が分かるのです。


(承)さて、私達の命は、たまたま存在した命ではなく、この命が全能主の御手によって創造された事が

分かった時、一人一人の命の使い方が重要になります。そこで、今日はヤコブ1章25節から、与えられた

命をどのように使うべきかを考えていきます。まず自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて踏み

とどまる人は、聞いてすぐ忘れてしまう人ではなく、行う人となります。こういう人は、その行いによって

祝福されるのです」
という御言葉から学んで行きます。主題である「自由をもたらす完全な律法とは何か」

という事に関して、まずは「律法とはどういうものなのか」という事について見て行きますと、ローマ7章

12節では「本来、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖なるものであって、正しく、良いものです」

とあります。しかし、ヘブル10章1節には、「律法は、全能主に近づく人々を完全にする事はできなかったの

です」
とあります。どういう事かと申しますと、律法は本来良いものでありますが、人間は罪を犯した

アダムの子孫である為、誰一人完璧に守る事は出来ませんでした。ですから、生まれながらの罪人にとって

律法は呪いでしかなかったのです。しかし、「その律法が廃棄され、私達は律法から解放された」と、

聖書には書かれています。ローマ7章6節には「私達がキリストと共に死んだ事により、私達を捕えていた

律法から解放されました」
とあります。私達は、実際には死んでおらず、今(なお)生きていますが、ここは

アオリスト形で書かれていますので、「イエス様が十字架で死なれた時に、私達もイエス様と共に死んだ」と、

全能主は見て下さっているという事です。死んだ人間には律法は適用できませんので、私達は律法から

解放されたと言えるのです
。即ち、全能主は旧約時代の古い契約(律法)を廃棄し、イエス様によって

新しい契約
を結んで下さいました。その新しい契約とは、言わば「キリストの律法」のことです。ガラテヤ

6章2節
を見ますと、「あなた方は『キリストの律法』である愛(一方通行のアガペーの愛)を全うするの

です」
とあります。その意味は、「私達はイエス様の一方通行の愛によって救われたのですから、今度は

私達が一方通行の愛を表して行く番である」
ということす。それが、心の板に書かれたキリストの律法で

あり、私達の能動的な命の使い方なのです。


(転)しかし、この地上で私達が一方通行の愛を表して行くのは難しい事です。何故かと申しますと、

私達は土の器である肉
を持っている以上、必ず自分中心な感情が働き、お返しを求める条件付きのギブ&

テイクの愛(フィリオス)
になるからです。では、どうしたら良いのでしょうか。それは、第Ⅱコリント

3章16節
に、「人が主に向く時には、心の板に書かれたキリストの律法の被いは取り除かれるのです」

書いてある通り、全能主に心を向けた時に、心の被いが取り除かれ、全能主が私達の心の中を照らして

下さって、一方通行の愛を表現できるようにして下さるのです
。即ち、全能主が私達を一方的に愛して

下さり、私達を救いに導いて下さった事が分かった時、「私達も、主の為にできる事を何でもしたい」

という気持ちになります。それは、お返しを求めるギブ&テイクの心からではなく、むしろ、自分の

意志でそうしたくなって来るのです。それは、自らの自由な行為です。この自由な行為こそ「キリストの

律法」、即ち
「自由をもたらす完全な律法」であり、それを「一心に見つめて踏みとどまる人は、聞いて

すぐ忘れてしまう人ではなく、自ら進んで行う人となります。こういう人は、その行いによって祝福される

のです」(ヤコブ1:25)。
ですから、たとえ自分にはできないと思うような事でも、「主にあってやりたい。

主よ、お願いします。やらせて下さい」と願って、もし出来たなら「主よ、ありがとうございます」と、

心の底から喜ぶ事の出来る祝福が与えられるのです。


(結)どうか、今日のメッセージを心の板に書き記して下さい(第Ⅱコリント3:3)。そして、キリスト

の律法、「自由をもたらす完全な律法」の中に置かれている者として、そこに踏みとどまり、「主の為に

一生懸命やりたい」という一方通行の愛の献身を表して行こうではありませんか。


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