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2025年3月1日

ひたすら全能主に心を注ぎ、
献身を全うする事

第Ⅱコリント 3:6、ピリピ 3:7~14 


(起) ピリピ3章11~14節の御言葉から、「ひたすら全能主に心を注ぎ、献身を全うする事」

学びたいと思います。


 まず、創造主の叡智(えいち)の業を見ていきたいと思います。人は動きながらでも、1つの物体に焦点を

合わせて見る事が出来ます。これは、いわゆる全自動の手ぶれ補正機能であり、このおかげでスポーツの

ように激しく頭が動かされるような状態でもボールの行方を追い続ける事が出来るのです。この仕組みの

秘密は、中耳の三半規管中にあります。三半規管は平衡感覚を司る器官で、3つの管が互いに直交している

ので、3次元で頭の傾きや回転具合を感知できます。その管の中にはリンパ液が流れており、頭の動きに

よって各管の根元にあるセンサーがリンパ液の流れの変化を感知し、その情報が電気信号として脳に伝え

られています。しかし、眼の自動手ぶれ補正機能については、三半規管の情報が直接、眼の筋肉に、「反射」

という神経経路によって直接伝えられます。そのために、瞬時に視点が維持され続けるのです。また、

流し目をしようと思えば、それさえもできてしまいます。何という理解を超えた、複雑で見事な仕組み

でしょうか。これらのものが、どうして知恵のない自然によって、偶然に出来上がるでしょうか?正に、

これは設計された仕組みであり、これを偶然に出来ると信じる事の方が困難です。聖書には、私たち人間は

「初めから創造主によって創られた者である」
という事を明言しています。そして、聖書はそのお方こそ

「全能主ヤハウェである」
と証言しているのです。


(承)さて、全能主がおられる事を理解した上で、第Ⅱコリント3章6節を見て行きますと、「全能主は

私達を新しい契約に仕える者として下さった」
とあります。この「新しい契約」とは、いわゆるシナイ山

から出る「モーセの契約」とは違います。モーセの契約は「律法を守れば祝福されるが、律法を守らなければ

呪われる」というものです。しかし、律法は「誰一人守れなかった」(ため)に、「死の務め」(7節)と

言われています。そこで、「新しい契約」とは、どういうものなのかと言いますと、「律法によっては義と

されなかった人間が、人の行いによらず、ただ『新しい契約』を信じる事によって『イエス・キリストが

して下さった贖いの故に』、
罪を赦して戴き、救いの中に入れられる」というものです。しかも、その贖いは

アオリスト形ですから、私達の過去の罪も、現在の罪も、未来の罪も、全部含まれているのです。こんな

一方的な救いは、どこにもありません。これは、何と有り難い契約なのでしょうか。


(転)そこで、この「新しい契約」に入れられたクリスチャン達に伝えるべきメッセージが、ピリピ3章

7節から出て来ます。「私達はキリストの救いを知り、その絶大な価値の故に、私達自身の肉の誇りは

無益なものとなりました」(7、8節)。
そして、「私達は今、キリストの死と等しくなり、何とかして

死者の復活の状態に達したい
のです」(10、11節)
と語られている献身のメッセージです。要するに、

キリストと共に死に、キリストと共に甦らされたクリスチャン達は、「イエス様が十字架で死なれハデスに

下られた後に、全能主によって復活させられた」のと同じように、「復活させられて、パラダイスに入れ

られる」という契約があるのです。ですから、クリスチャンは「生きることはキリストであり、また死ぬ

ことは益です」
という献身の生涯を(まっと)うするのですしかも、この部分は「現在形」で書かれて

います
ので、ここは、「アオリストによる贖いの立場がある」という意味ではなく、「イエス様が最後の

最後まで全能主に心を注いで従って行かれた」ように、「私達も一生涯全能主に従い、心を注いで復活の

状態に達したい」という献身の決意で書かれているものです。即ち、キリストの新しい契約に入れられた

者は、その保証として御霊の手付金を貰っていますので、「献身の生涯を送りなさい」というのが、パウロが

語っている真意なのです。なぜなら、私達は「既にそれを自分のものにしたとか、既に完全な者になって

いるとか言うのではなく、何とかして獲得しようと懸命に務めている」
からです。その努力は、「キリスト

・イエスによって捕らえられているから」(ピリピ3:12)
出来るものです。私達は、現在「土の器」

(肉の器)を持っているのが現実です。ですから、日々、厄介な肉の問題を(かか)えています。しかし、

いつまでも自分の肉に捕われていたら、前に進めません。ですから、「後ろのものを忘れ、前のものに

向かって懸命に努力し、ひたすら目標を目指して走るのです」(ピリピ3:13、14)
と、書かれて

います。即ち、常に土の器を持ちながらも、霊的な事に目を留め、「まず、全能主の国と全能主の義を

第一に求めて歩んで行く」という一事に励むのです。ですから、私達がいつも土の器を意識して、地上の

幸いを求め、「自分の性格が変えられたい」とか、「この肉が変えられなければ生きて行けない」という

考えに留まっていてはいけません。聖書の示す所によれば、はっきりと「生きている限りは肉の中にある」

と書かれているのですから、「全能主は、私達をあえて土の器の中に閉じ込め、肉を持たせた状態の中で、

どれだけ一途に主を第一にして励んで来るのか」
を見たいと思われているのです。それが、信仰の高嶺を

目指して行く私達の信仰のあり方であり、信仰の訓練であり、献身の心なのです。


(結) 全能主は、「人間の罪の贖いの為に、キリストを地上に送り、十字架の苦しみを受けさせた」という、

そこまでの事をされたのですから、私達がただ信じて、「一丁(いっちょう)()がり」という訳にはいきません。

私達は、ひたすら全能主に心を注ぎ、まず、第一に全能主の国と全能主の義を追い求めて行く信仰の行いが

必要です。どうか、この献身の生涯を全うしようではありませんか。


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