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2025年3月22日

勝利を得る者とは、全能主を信頼して懐に飛び込み、
全能主の集大成のため、命を使っていただく事』

ヨハネの黙示録 1:10~20 


(起) 黙示録1章、2章から、勝利を得る者は聖なる都に入れられるという素晴らしい約束が与えられて

いることから、「勝利を得る者とは、全能主を全面的に信頼し、全能主の懐に飛び込んで、全能主の集大成の

為にこの命を使っていただく事」であることを学んで行きたいと思います。


 初めに、人の手について語りたいと思います。私達はいつも何気なく手を動かしています。しかし、

よくよく考えてみると、手はすごい仕組みをしているのです。日常生活の中では、重い物を持つ時も

あれば、細かく繊細(せんさい)な動きを必要とする時もあります。なぜ力強さと繊細な動きを両立できるので

しょうか。それは、手のひらの筋肉と腕の筋肉とで使い分けられているからです。そもそも手には40種類

以上の筋肉が働いており、それらが連携しあって、手全体と指先まで動かしているのです。そして、指自体

には筋肉がなく
前腕(ぜんわん)(うで)(ひじ)から手首までの部分)にある筋肉から伸びた(けん)(筋肉を

骨に結びつける組織)
によって指先の間接が動いているのです。前腕(ぜんわん)という大きな筋肉を使っている

ので、力強い指の働きができるのです。そして、手のひらには27個の骨が複雑に組み合わさっており、

何不自由もなく、指の繊細(せんさい)な動きを可能にしているのです。また、なぜ手のひらを握っても血管や

神経などが(つぶ)れる事なく、動く事ができるのでしょうか。
それは、どちらとも伸び縮みする弾力性の

ある素材でできているからです。また、筋肉や骨に守られていて、わざと(すべ)るような構造をしている

ので、閉塞(へいそく)されないのです。これらの仕組みを人間の手で再現しようと考えても、完全には不可能

です。なぜなら、繊細(せんさい)な動きに重きを置くと重さに耐えられず、力強さに重きを置くと繊細(せんさい)

動きができないからです。また、それだけではなく、故障したら人の手によって治さなければなりませんが、

人間の手は自動的に治癒し、壊れた時よりも更に強く再生されるのです。このような様々な仕組みを自然が

考えて(つく)る事ができるのでしょうか。また、偶然に出来上がるでしょうか。いいえ、不可能です。

この仕組みは、人知を超えた創造主が設計し、全能の力によって創造されないと、これだけの完璧な仕組みは

出来上がらないのです。即ち、人の身体の仕組みは、創造主が存在しないと出来ない仕組みなのです。


(承)さて、「全能主に与えられたこの命を、人はどのように使い、何を目指して生きて行くべきか」

という事について、明確に記されているのが、今週から学んで行く黙示録です。
まず、1章1節を見ますと、

「イエス・キリストの黙示」とありますので、この黙示録の主人公はイエス様です。イエス様が、全能主

から受けた内容を御使いに伝え、そしてヨハネに伝えて、「この内容を七つの教会に書き送りなさい」と

命じたのです。例えば、2章1節からは、エペソの教会に宛てた内容が記されていますが、「右の手に七つの

星を持つ御方、七つの金の燭台の間を歩く御方が、次のように言われる」とあります。これは明らかに

イエス様の事です。その他の6つの教会に対しても、全部、イエス様からそれぞれの教会の御使いへ

語られているという事が分かります。


(転)では、それぞれの教会に語られた具体的な内容を見て行きますが、共通して語られている事は、

「勝利を得る者になりなさい」
という事です。まず、エペソの教会は、「勝利を得る者には、全能主の

パラダイスの中央にあるいのちの木の実を食べる事を許そう」(2:7)
と言われています。いのちの木は

どこにあるのか
というと、単なる御国ではなく、御国の中にある聖なる都です(22:1~2)。また、

次のスミルナの教会は、「勝利を得る者は、第二の死によって決して滅ぼされる事はない」
と言われて

います。人は皆一度死に、白き御座の審判の時に甦るのですが、その時に裁かれ、ゲヘナの火の池に投げ

込まれて、永遠から永遠まで苦しむのが、第二の死です。しかし、勝利を得る者となれば、この第二の死に

よって滅ぼされる事はなく、聖なる都に入れられる事が約束されているのです
。他の教会に語られている

内容も全て、「勝利を得る者は、聖なる都に入れられる」という約束事です。即ち、「全能主の幕屋が人と

共にあり、全能主が人と共に住み、人は全能主の民となり、全能主自ら人と共にいて、人の目から涙を全く

拭い取って下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが既に過ぎ去ったから

である」(21:3~4)
という幸いな世界に入れられ、全能主の子として迎えられるという事です(21:7)。

それだけではなく、終わりのラッパ(黙示録11:15)の響きと共に、まばたきする瞬間に一瞬にして

変えられ、朽ちる者が朽ちない者を着るのです(第Ⅰコリント15:51~54)
。私達は、イエス様と全く

同じ姿に変えられて(ピリピ3:21)、完全な贖いを味わい、
この肉の世界から解放されて、全能主の

都の中に入れられる、栄光の世界が待っているのです。

(結)私達に、こんなに素晴らしい約束が与えられているのは、すべてイエス様によって人間の中から

贖われたからです。ですから、その素晴らしい救いを信じ通した者は、「勝利を得る者」としてキリストの

花嫁となり、聖なる都に入れられ、その特権として命の木の実に預かるのです。
これが「イエス・キリストの

黙示」
として、私達に示されたことです。ですから、キリストを信じたならば、全面的に全能主を信頼し、

全能主の(ふところ)に飛び込み、「小羊の行く処へは、どこへでも付いて行きます」と献身の道を歩むのです。

そして、堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みましょう。その労苦は決して無駄に

なりません。むしろ、永遠の幸いに繋がるのです(第Ⅰコリント15:58)。この事が分かったなら、

もう自分の事を「どうのこうの」と言っている時ではありません。全能主に近づき「残りの生涯を献げます。

全能主の為に働かせて下さい」と言うのが私達の生き方です。どうか、その心を目一杯表し、全能主の

集大成の為に、この命を使って頂こうではありませんか。


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