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2025年7月6日

御霊と御力によって、
全能主を信じる者とされた特権を感謝し、
胸を張って堂々と信じ続けていく

第Ⅰコリント 2:1~5 


(起) 第Ⅰコリント2章4節の御言葉から、御霊と御力によって「全能主を信じる者とされた特権」

を感謝し、「信じる者に働く全能の力がどんなに偉大であるか」を味わって行く事を学んで行きたいと

思います。


(承)さて、パウロさんは、「全世界の人々に福音を宣べ伝える」というビジョンを持って出掛けて

行きました。ところが、コリントの町に行った時、「私が、あなた方の所に行った時には、人間的に弱く

かつ恐れていて、ひどく不安があった」
と告白しています。それは何故かと言いますと、「福音という

ものは、全能主が人間に啓示された一方的な示しであって、それは、異邦人には愚かなことであり、

理屈で理解出来るものではなかったから」です。特にパウロさんの宣教時代は、イエス様が十字架に

つけられてから20年くらいしか経っておらず、イエス様の事を知っている人達が、まだ生きている

時代でした。そんな中で、肉体を取って来られたイエス様が、「全能主の子であり、私達の罪を贖う

ために、十字架にかかって葬られ、三日目に甦られた救い主である」
と語っても、信じる者が起こ

されるのは、容易ではありませんでした。そこでパウロさんは、異邦人に対しては全能主の奥義

宣べ伝えるのに、人間の優れた言葉や難しい知恵を使って議論するつもりはありませんと言って、

「ただ、十字架につけられたキリスト以外には、何の知識も語るまいと決心したのです」(Ⅰコリント

2:1~2)と言っています。なぜなら、キリストの福音の宣教は、人間的な知恵で説得していくもの

ではなく、全能主の言葉を『御霊と御力の現れ』として語っていくもであったからです。この福音は、

大胆に語った後は御霊に委ねて、「信じるのは、あなた次第です」という心に訴え懸けるものです。

ですから、そこで信じる人が起こされた場合は、それは全能主の「御霊と御力の現れ」であり、「全能

主の栄光」
となるのです。こういう訳で、十字架の福音というのは、「愚かのようであっても、救いに

あずかる私達にとっては、全能主の御霊と御力の現れなのです」
(第Ⅰコリント1:18)。即ち、

真理を単純に信じ受け入れた者には、全能主の力によって救いが与えられ、全能主の力によって支え

られて行くという事です。
ですから、この事を信じたクリスチャンは、胸を張って堂々と信じ、全能

主の力によって助けられて行くことを味わい、証していくのです。


(転)では、それを味わって行くにはどうしたら良いのでしょうか。それは、一切の(ひね)くれ根性と

疑いの心を捨てて
全能主を単純に信じ、確信を持つ事です。そうすれば、私達は信じた者として、

全能主の力を見せて頂くことができます。もちろん、それは自分勝手な御利益宗教ではありません。

私達は、恵みの信仰から抜け切っていないので、いつも全能主に御利益を求めてしがみ付こうとします。


しかし、私たちの救いは、既に完成していますので、私達の正しい信仰のあり方は、受け身ではなく

「死に至るまで忠実であれ」という能動的なものなのです。
確かに、私達は「世の愚かな者」、「世の弱い

者」、「身分の低い者」、「軽んじられている者」、「無きに等しい者」です。しかし、
全能主は、この世の

知者(ちしゃ)
を辱めるために、あえて世の愚かな者、弱い者を選ばれたのです(第Ⅰコリント1:27~28)


そして、そういう弱い者を全能の力によって、能動的に生きて行けるように心を替えて下さる方が、

私たちの全能主です。なぜなら、「全能主の絶対的な力が、私達信じる者にとって如何に偉大であるかを、

あなた方が知ることが出来るように」(エペソ1:19)
と、言われているからです。ですから、余分な

事を考えずに、単純に全能主に信頼し信じて行く、能動的な歩みを始めれば、全能主は喜んで御力を

現して下さるのです。
この世界と自分自身の存在は、決して偶然に出来上がったものではありません。

また、自分が創っ
たものでもないし、自然が創ったものでもありません。その仕組みを見れば、

サムシング・グレイトである全能主がおられる事は明らかです。私達は、その御方の一方通行の

アガペーの愛を知り、聖書を通して信じたのですから、「聖書は正しいと確信し」、本気で信じる心を

持って、全能主のために生きて行くべきです。それは、あらゆる事において、「全能の力」を持った

御方に信頼して行く生き方です。私達は、この世で
生活している以上、色々な問題が私達の目の前に

降りかかってきます。しかし、その問題を自分で解決して行くのではなく、本気で全能主にお委ねして、

能動的に信頼していけば
、「全能主が導いて下さった」という、全能主の力を味わう事が出来るのです。

(結)こういう訳ですから、どうか信じる事に対する確信を持って下さい。私達が信じた事は、

この世では愚かな事のように思われるかもしれません。しかし、この世の知者(ちしゃ)と言われている

科学者達は、この世界や人間の体の素晴らしい仕組みを調べ上げた上で、最終的には「これは偶然に

できた」と言うのです。全能主は、この世の知者(ちしゃ)を辱めるために、あえて世の愚かな者、

弱い者を選ばれ、十字架の福音を通して、信じる者を救おうとされました。
世の人達が愚かだと

思っている十字架の贖いこそが、「全能の力」そのものです。全能主は私達をその救いの中に置いて

下さいました。私達が全能主を信じる者とされた事は、最高のプレゼントであり、御霊と御力の現れ

です。どうか、この特権を心から感謝して、胸を張って堂々と信じ、十字架の言を宣べ伝えて

行きましょう。そして、信じる者に働く全能の力がどんなに偉大であるかを味わい、それを証して

行きましょう。


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