2025年6月29日
『捻くれ根性を粉砕し、全能主を単純に信じていく事』
ヘブル書 11:6、第Ⅰヨハネ 3:1~12
|
(起) ヘブル11章6節と第Ⅰヨハネ3章2節の御言葉から、私たちは生まれながらに染みついている
「捻くれ根性」を粉砕し、「全能主が、人間を一方的なアガペーの愛をもって交わる事を願って
創造された事」を受け止め、その全能主を単純に信じて行く事を学んで行きたいと思います。
(承)さて、今日はまずシーラカンスについて見て行きたいと思います。シーラカンスは中生代の三畳紀の
化石の中から発見され(約2億年前)たもので、胸びれが太いことから、魚類から陸上生物への進化の
中間種だと言われて来ました。ところが、1938年にアフリカで漁師が釣り上げた一匹の魚と、また1997年
にはインドネシアのスラウェシ島で発見されたその魚が、三畳紀のシーラカンスの化石と姿・形が全く
同じであったというのです。という事は、2億年前のシーラカンスが現代まで生きていたということで、
魚類から陸上生物へ進化したという仮説は、当てにならない事が分かって来たのです。また、調べて
行きますと、普段シーラカンスは深海に住んでいますので、捕獲することは一筋縄ではいきません。
深海では圧力がかかりますが、なぜ潰れてしまわないのでしょうか?それは、体の中から外に向かっての
体圧と、海水の圧力をほぼ同じに保っているからです。そこで、普段、深海に住んでいる魚が陸に上がって
きたらどうなるかと言うと、今まで背負っていた水圧がなくなり、体圧の方が強くなって、死んでしまい
ます。場合によっては爆発してしまうかもしれません。ですから、魚が海から陸に上がって生活できる
ようになるという事は、そんな簡単な話ではないのです。また、気圧の変化というものは、人間にとっても
身近な問題です。例えば、台風が来ると気圧が低くなり、それで人間は偏頭痛などが起こって体調を崩して
しまいます。気圧はそれだけ、生きものに敏感に影響を与えるのです。という事は、この地球で人間が
生きて行く為には、台風などの気圧の変化が起こっても、その範囲内で生きて行けるように、初めから
全部仕組まれていなければなりません。ですから、人間がこの地上で生きて行くには、全ての自然環境も
整えられていなければならないのです。それは、偶然に仕組まれ、偶然に整えられた訳ではありません。
生きて行けるということは、あらゆるエラーも想定した上で、その中でも生きて行けるように、初めから
仕組まれていなければ、存在できないのです。海の魚は海で、陸上の動物は陸で種類に従って生きていける
ようになっているのです。そこには確かな区別があります。一体誰が秩序に従って生かしたのでしょうか。
少なくとも人間が作った訳ではありません。では、偶然の積み重ねでしょうか。否、偶然には秩序はありま
せん。聖書は、被造物の驚くべき仕組みは、全能主の存在を明らかにしていると証言しています。決して
万物は、自然の偶然の産物ではないのです。その御方の存在がなければ、自分の命の目的が分かりません。
ですから、命を創造して下さったサムシング・グレイトである、偉大な全能主を信じて信頼して行くのは、
自然なことでしょう。
(転)そこで、私達は聖書の啓示を通して、その偉大な全能主の存在を知り、また信じました。そして、
イエス・キリストの救いを知らされ、信じたにも拘わらず、段々と、信じた事に対する確信を失って
いくのは、何故でしょうか。それは、私達の信じた動機が不純であったからです。即ち、「信じたら幸いが
来て、困った時にはいつも助けて貰える」という、自分たちの都合のいい信じ方をしたからです。聖書の
啓示は、単なる人間にとって都合のいい御利益として語られているものではありません。実際に、信じた時と
変わらない問題に悩まされ、悩みは尽きない事が多いのです。その為、人間は、自分の思い通りにならないと、
疑って捻くれ、素直に信じる心から離れるのです。私達が信じたのは絶対的な御方がおられると
分かって信じたのです。そこで忘れていけない事は、「人間はどういう目的を持って創造されたのか」
という事です。その答えは、聖書に明らかにされています。それは、「主なる汝の全能主を愛せよ」と
言われた全能主が、「人間を、愛の対象として交わる相手として存在させたかった」という事です。
その愛は、一方通行の愛です。全能主は、一方的な愛を罪人の私達に注いで下さり、救いもイエス様を
通して一方的に下さいました。その純粋な全能主の御心を素直に受け止めたならば、こちらも純粋な心で
「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、全能主を愛します」という心を表して行くのです。そうして
行くなら、凄く良い交わりの世界が生まれるでしょう。全能主は、そういう者を新しい天と新しい地に
迎え入れ、交わりを持ちたいと願っておられるのです。しかし、もしそこで、「私達が、疑い深く、
捻くれた心を持った」としたらどうでしょうか。全能主の一方的な愛の心を素直に受け止める事が
できないどころか、それを無視し、全能主を軽んじて行く事になるのです。ですから、そういう自分勝手な
捻くれ心は、罪として悔い改めて砕いて行かなければなりません。捻くれ根性は、私達を罪の
スパイラルに陥れ、また悪魔の罠に填まる入り口とされるのです。ですから、「自分の捻くれ
根性には振り回されない」という事を、自分で定めなければなりません。捻くれ根性に陥ったならば、
全能主を純粋に信じ続けて行く事はできないからです。そして、主を信じる心がなくなれば、大胆に
全能主に近づいて行くことは出来ません。なぜなら、「全能主に近づく者は、全能主のおられる事と、
御自分を求める者には報いて下さる方である事とを、信じなければならないからです」(ヘブル11:6)と、
あるからです。即ち、全能主の一方的な愛を感謝して受け止める素直な心を持っていなければ、たとえ
信じても、全能主との交わりは壊れるのです。全能主は、御自身の純粋なアガペーの愛の対象として
交われる、素直な心を持った者を探しておられるのです。
(結)それが分かったら、私達は素直になりましょう。自分自身の心を、捻くれた思いで汚したく
ありません。また、損得な心で汚したくはありません。全能主は、私達が罪人だという事も、全部承知の
上で私達を受け入れ、全ての負債をイエス様を通して支払って下さったのです。そして、「全能主の愛の
交わりの世界に入れたい」と願っておられるので。私達は、この全能主をどこまでも信じる者の立ち位置に、
身を置きましょう。その為には、疑わない素直な心が一番です。そういう者には「聖なる都、新しいエル
サレム」が用意されているのです。そして、身も心も一瞬のうちに、キリストと全く同じ性質に替えられ、
「生ける全能主の都、多くの御使いたちの祝会、また、天に登録されている長子たちの教会(天の切支丹
たち)」に近づいて行くのです。さらに、天の故郷では「キリストの花嫁として、全能主の子」と呼ばれます
(第Ⅰヨハネ3:2)。ですから、生まれながらに持っている、罪にまみれた醜い捻くれ根性を捨てて、
素直な信仰を表していこうではありませんか。全能主のアガペーの愛を素直に受け留め、純粋に信じ続けて
行きましょう。
|
|