2025年7月13日
『全能主から発した者として、この体と命を主の為に用い、 キリストの為に生き、全能主にお仕えする一本道』
第Ⅰコリント 8:6
|
(起) 第Ⅰコリント8章6節の御言葉から、「私達は、全能主から発した者として、この体と命を全能
主のために用い、キリストの為に生き、全能主にお仕えする一本道」を学びたいと思います。
(承)さて、第Ⅰコリント8章6節には、「私達には、父なる唯一の全能主のみがおられるのであって、
万物はこの全能主から発し、私達はこの全能主のために存在しています。また、唯一の主イエス・
キリストがおられ、万物は、このキリストによって成り、私達は、このキリストによって生きています」
とあります。「万物は全能主から発している」という事を、今日は「ムナクロチドリ」という、渡り鳥の
生態から見て行きます。この鳥は、アラスカから餌を求めてハワイまで飛んで行きますが、問題は、途中に
島がないことです。ですから、一度飛び立ったら最後まで休まずに飛び続けなければなりません。この
ムナクロチドリの体重は約200g位の鳩ぐらいの大きさで、その内70gの脂肪がエネルギーに
変えられて行きます。しかし、計算上、70gのエネルギーではアラスカからハワイまで飛んで行く事が
できません。それを解決するのが編隊飛行です。彼らは、V字編隊で飛ぶ事によって空気抵抗を抑え、
エネルギーを節約しているのです。そうでないと、ハワイにたどり着く前に海に墜落して死んでしまい
ます。また、アラスカからハワイまで真っ直ぐ飛んで行く事のできる方向感覚を持っている事も、すごい事
です。もし、台風に巻き込まれたり、雲に覆われて太陽の光が弱くなったりして方向が分からなくなり、
コースを外れてしまったら、死んでしまいます。即ち、真っ直ぐ最短距離で飛んで行くための能力が予め
備えられていないと、死んでしまうのです。また、若鳥は親鳥が飛び立った後に、2ヶ月ほど経ってから、
ガイドなしでアラスカからハワイまで処女飛行します。という事は、初めから全ての能力が仕組まれて
いなければ、間違いなく海の藻屑と成り、絶滅していたことでしょう。これは、とても偶然の能力
とは考えられません。ですから、万物は間違いなく全能主から発しているという事が解ります。
(転)さて、この事は人間の生態にも言えることです。「私達は、全能主によってこの自然界に存在させ
られている」という事は、否定できない事実でしょう。そこでもし、全能主から発した者が、全能主を
無視し、自分のために生きるなら、ノアの洪水の時のように、人の心は悪に傾き、裁かれて絶滅してしまい
ます。しかし、私たち人間は、本来はそういう者の一人でしたが、そこから引き上げて頂いたのです。
それはキリストのアオリストの贖いのお蔭です。そもそも、「全能主とイエス様を信じる事ができた」
ということ自体が奇跡であり、これは、御霊と御力の現れです。私達が全能主の前に、何か努力して
救われたのではなく、ただ、全能主が送って下さったイエス様の十字架の贖いを「信じただけ」で救われた
のです。それは、全能主の側のアガペーによる一方的な愛による救いであって、私達は完全に受け身です。
ですから、それを信じて受け取った救いを、決して軽んじてはいけません。それが分かったら、クリス
チャンの生き方は、全能主に対して能動的であるべきです。例えば、第Ⅰコリント10章31節を見ますと、
「あなた方は、飲むにも食べるにも、すべて全能主の栄光のためにすべきです」とあります。即ち、
「私達は、生きるにしても、死ぬにしても主のためにするのです。」それは、全能主のために命を能動的に
使って行く生き方です。ですから、健康を害するような食べ方や飲み方は、主の栄光のためになりません
ので控えます。「飲むにも食べるにも、すべて全能主の栄光のため」とは、そういう事です。また、
ロマ書14章7節を見ますと、「私達の内、誰一人として自分のために生きている者はなく、誰一人自分の
ために死ぬ者はありません」とあります。即ち、私達の命は自分のために使うのではなく、全能主のために
使う命なのです。私達は救われた時、その気持ちが自然と湧き出て来た筈です。ところが、信じた後に
何も変わっていない罪人の姿を見て、「こんな自分では全能主に仕えて行く事はできない」と思うように
なって行きました。それは、「自分の願い通りにならない」という不満によって、後ろ向きになって行った
からです。しかし、それは間違っています。なぜなら、私たちの救いは完全だからです。それは、「ただ
一度キリストのからだが献げられたことによって、聖くされたのです」(ヘブル10:10)とあるように、
救いは、全能主の側による一方的な愛の行為であり、現在の私たちの善し悪しに依ってはいないからです。
ですから、キリストの永遠のアオリストの救いを頂いた者ならば、その事実の故に、全能主に対して
「私達は生きるならば、主のために生き、死ぬならば、主のために死ぬのです」という、全能主に対する
明確な信仰によって、「この命は主のために使おう」という、一本道の生き方こそが、クリスチャンに
とってふさわしい生き方です。
(結)私達にとって、全てのことは、全能主から発し、全能主のために存在しています。しかも、御霊と
御力によって信じる者とされました。ならば、私達は全能主から発した者として、キリストのために生き、
どこまでも全能主にお仕えして行くのが本筋です。残された生涯、この命と身体を、全能主のために
用いて行きましょう。
|
|