2025年5月18日
『キリストと共に死に、蘇り、新しい命の中で生きている という全能主から啓示された立場で生きる』
ローマ 6:4、ガラテヤ 2:20
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(起) ロマ書6章4節とガラテヤ2章20節の御言葉から、「自分はキリストと共に死に、キリストと
共に甦り、今は新しい命の中で生きている」という、全能主から啓示された立場で生きて行く事を
学びたいと思います。
(承)さて、ロマ書6章4節を見ますと、「私達はキリストと共に死んで葬られた」という事と、「キリ
ストと共に甦った」という啓示によって、「新しい命の中で歩んで行く者とされた」という事が記されて
います。これは、両方ともアオリスト形の時制で記されています。まず、「キリストと共に死んで葬られた」
という事ですが、この「死んだ」という時制は、アオリスト形という単純過去で表現されていますので、
現在の状態如何に関わらず、「今現在の自分の肉体が死んでいなくても、キリストを信じた時に、キリストと
共に死んだのだ」という意味です。ですから、全能主は、「キリストと共に死んだ者」と啓示し、そのように
見ておられるという事です。そのために、死んだ人間には罪を問う事ができず、裁きを与える事ができま
せんので、「キリストと共に死んでしまった」あなた方は、律法から解放されて、現在の状況に関係なく、
「罪に対しても死んでしまったのです(ロマ6:2)」と言われています。これは、全能主からの啓示
です。啓示とは、「人知を以て知ることの出来ない、全能主の秘め事を、全能主自らが示すことです。」
これが、全能主の言葉である聖書なのです。また、それと同時に、「死んだ人間がキリストと共に甦り、
新しい命の中で歩む者」とされているということも、アオリスト形ですから「今現在、甦っていなくとも、
キリストと共に死んだ者が甦り、新しく創造されて、新しい命の中にある(ロマ6:4)者」と、全能主は
見て下さっているということです。しかも、「新しい命というのは、古い命を土台にして造られた命では
なく、死んだ者が、全く新しく創造された命を受けている」(第Ⅱコリント5:17)ということです。
即ち、私達は一度死んで、新しく創造された命を与えられたという事です。ですから、私達は古い自分の
物の見方、古い考え方から完全に離れるべきです。「私達は、肉にあって生きていても、肉の性質に
従って生きる義務を負っていません」ということですから、実際には、古い自分、罪深い姿を持って
いますが、そこから敢えて離れて考えるのが霊的な生き方です。そして、ガラテヤ2章20節に、「私が今、
肉体にあって生きているのは、御子を信じる信仰によって、生きているのです」とあるように、古い肉体を
持ちながらも、キリストを信じ仰ぐ心で生きて行くのが、アオリストの救いを信じた者の生き方なのです。
実際に、この体も贖われるのは、キリストの再臨の時ですから(第1ヨハネ3:2)、この地上にあっては、
ロマ書6章11節にあるように、「一方では、罪に対して死んだように、他方では、全能主に対して私達の
主イエス・キリストにあって生きている者であると、認め続けなさい」という、受け止め方が霊的な
クリスチャンの生き方です。
(転)とは言え、実際の私達は、肉の性質に捕らわれてしまう傾向があります。ですから、パウロさんは、
「兄弟達よ、私達は肉にあって生きていても、肉の性質に従って生きる義務を負っていません」と語って
いるのです。それは、敢えて肉の性質に捕らわれず、与えられたアオリストの救いを見上げて考えを
切り替え、どこまでも、全能主を信頼し、信じる信仰の生き方をして行くなら、毎日が感謝と喜びの中に
置かれるからです。これは、個人の「信仰心」次第です。なぜなら、信仰はその人、その人の心の意識から
出るものだからです。信仰は決して強制されて、押しつけられるものではありません。「自分の自己決断
です。」しかしながら、クリスチャンなら聖書の啓示を信じて、全能主の言葉をそのまま受け入れて
始まったのですから、敢えて全能主の言葉から離れて、生まれながらの肉の性質に留まるのは、おかしな
事です。それでは、アオリストの救いを信じていない事になります。即ち、「キリストと共に死んで、
キリストと共に甦らされた新しい命の中で考えて生きて行く喜び」を放棄しているのです。ですから、
もし、新しい命で生きて行こうと思うなら、むしろ、自分の意識を換えて、「肉の性質は死んだ者として
離れ、敢えて自我を砕き、敢えて自我を折って、生きて行くのです。」肉の徹底的な否定こそが、全能主の
啓示を信じた者の信仰ですから。それなのに、どうして尚も肉の思いに従って生きるのでしょうか。
肉の性質に従って生きる義務はないのに、敢えて習慣だからと言って自分の我に留まるのでしょうか。
私達には信じた時に御霊を与えられました。それなら、その御霊の思いに心を向けていくべきです。
そうすれば、悪魔が古い肉に語り掛けて来ても、御霊は「古い自分は死に、今は新しく創造された命を
持って、キリストにあって生きている者だ」という意識を再確認させてくれます。ならば、その心に
切り替えて生きて行くのです。先週もお話ししましたが、イエス様は十字架を目の前にして、「アバ、父よ。
あなたには出来ないことはありません。どうか、この杯をわたしから取り除けて下さい。しかし、わたしの
思いではなく、あなたの御心のままになさって下さい」と、霊の心に切り替えて祈られました。あれは、
「本当はもう逃げ出したい」という思いと、「主を信じて最後まで従いたい」という思いの板挟みの中で、
最後は自分自身の弱気な我を折って、「父の御心のままに」と定められた言葉です。私達は、乗り越え
られないと思うような所を必ず通させられます。その時、自分自身の古い肉の我に心を向けるのではなく、
キリストにあって新しくされた命の心に立って、そのハードルを乗り越えるのです。即ち、肉の力を
絞り出して乗り越えるのではなく、信仰の心に切り替えて乗り越える習慣を身に着けて行くのです。
(結)今の段階では、「切り替える」という表現しかできないのが残念な事ですが、満たしを受けていない
者が、信仰の心に切り替えて従って行く心を、全能主はどれだけ喜ばれるでしょうか。その信仰は患難時代
に生きて来ます。「信仰とはそういうものだ」と自覚して下さい。どうか、「自分はキリストと共に死に、
キリストと共に甦り、今は新しい命の中で、キリストを信じ仰ぐ信仰によって生きている」という意識を
持って、信じた者の生き方をして行きましょう。信仰の心に切り替えて乗り越える習慣を身に着けて行くの
です。
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