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2025年5月11日

「肉の我を砕き、全能主の力によってやります」
と定め、主の御心が成し遂げられる戦いに向かっていく』

マルコ 15:35~36、第Ⅱテモテ1:7~8


(起) マルコ伝15章35~36節より、イエス様の祈りの言葉と、第Ⅱテモテ1章7~8節「全能主の

力によって、福音のために私と苦しみを共にして下さい」というパウロの勧めから、「肉の我を砕き」、

「全能主の力によってやります」
と定めて、「主の御心が成し遂げられる戦いに、向かって行く事」を

学びたいと思います。


(承)さて、イエス様は十字架に懸けられる前に、「もしできることなら、この時をわたしから過ぎ去らせて

下さい」と本気で祈られました。イエス様は、自分が十字架にかかって死ぬ事を予め知っておられ、その為に

来られたのですが、いざとなった時、恐怖心に捕らわれて臆病になり「父よ。あなたにはできないことは

ありません。どうか、この杯をわたしから取り除けて下さい」
と、弱気な心を出して三度祈られたのです。

これは、マリヤを通して罪深い人間の肉を()なった事によって、肉の弱さを表されたイエス様の言葉

です。ところが、三度目の祈りの時には、その肉の思いを断ち切り、「しかし、わたしの思いではなく、

あなたの御心のままになさって下さい」
と心を定められたのです。私達は、このイエス様の心の定めを

(なら)
うべきです
何故なら、「信仰とは、我を折り、自分自身の肉の感情を乗り越えたところから始まるから

です。」
私達も、この50年間、いろんな苦しみを通されてきました。時には、「もう無理だ」と思う事も

何度かありました。しかし、そういうところを通りながらも、「主の御心のままに」と心を変え、決して

逃げることはせず、ここまで来ました。という事は、「主の御心に従って行く為には、肉の思いは絶対に

折って行かなければならない」という事です。イスラエルの民が40年間荒野を通されたように、信じた

者達は皆、(つら)いところを通されます。しかし、そこで肉の我を折り「私の思いではなく、あなたの御心

のままになさって下さい」と、全てを主に委ねて従って行くのが、クリスチャンの生き方だからです。


(転)では、肉の我を折って、全てを主に委ねて任せて行くとは、具体的にどういう事でしょうか。例えば、

第Ⅰサムエル17章でダビデはゴリヤテと対峙した時、ダビデは自分自身の弱さを痛感し、恐怖心さえも

持っていました。しかし、「全能主には力がある。その全能主の力によって戦うのだ」という心の転換を

図って、戦いに向かって行きました。これは大事な事です。敵と戦いを交えるときに、圧倒的な敵の強力な

力を感じれば、誰でも「恐怖心」を抱きます。しかし、それでも恐怖心を持ったままで、正義感を抱いて

戦いに出て行くなら、「駄目かも知れない」という思いの中で戦うことになります。そんな中で、「主よ、

助けて下さい」と祈っても遅いのです。ただ、肉の感情を奮い立たせて、臆病の虜になったままで戦っても、

敗北は目に見えています
。しかし、弱さを抱えているからこそ、戦いに出て行く前に祈って心の定めをし、

「わたしの思いではなく、あなたの御心のままになさって下さい」
と、立ち上がって出て行くのなら、

この両者には大きな違いがあります。祈らずに心の定めもなく行く場合は、結局自分の力に頼ることに

なるからです。しかし、祈って心の定めを持って戦いに行く場合には、「全能主の力によってやります」

という力強い平安の中で戦いが出来ます。ここには雲泥の差があるのです。イエス様は、正に自分の弱気な

気持ちの故に、三度の祈りをしました。しかし、最後には、自分の弱気な感情を折って、心を定め「しかし、

私の思いではなく、あなたの御心のままに為さって下さい」
と立ち上がられたのです。祈らずに感情を

奮い立たせても、ただの負け犬の遠吠えにほかなりません。しかし、戦いに行く前に祈って「全能主の

御心のままに」
と、心を切り替えることが出来たら、余分な感情を断ち切って、「全能主の力によって

戦うのだ」
という思いに集中できます。それが、私達の信仰の在り方です。初めから臆病な心を持たない

人間はいません。イエス様でさえ臆病で弱気な心が働いたのです。それが私達なら当然です。しかし、

そこを折って「主の御心のままに」と一歩踏み出すかどうかを、全能主は見ておられるという事です。


第Ⅱテモテ1章7節を見ますと、「全能主が私達に与えて下さったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と

慎みとの霊だからです」
とありますが、はっきり言って、私達の中には、力と愛と慎みはありません。

ところが、8節を見ると「全能主の力によって」と書いてあります。ですから、力と愛と慎みというものは、

全能主が持っておられる力なのです。即ち、「全能主が持っている力によって、臆病の霊に立ち向かって

行きなさい」という事です。
ですから、私達は何事も取り組む前に、「自分には力はない。臆病しかない。

しかし、主の御心のままにと決めてから、始める」のです。すると、聖霊様の助けがあり、全能主の力が

表されます。その段階を踏まずに始め出すと、ただ自分自身の駄目さ加減を思い知らされるだけで終わって

しまいます。ですから、私達は肉の我を折り、「全能主の力によってやる」と定めた上で前に向かって

行くのです。

(結)どうか、私達の信仰をこのように変えて下さい。私達は常に自分の肉の限界を思い知らされ、逃げたく

なるようなところを通されます。しかし、そこで逃げたら終わりです。だからこそ、「肉の我を折って、

全てを主に委ねて前に進むのです。」私の50年間の信仰の戦いは、そういう所を通りながら、この意識を

持ってここまで来ました。これから、この春日井の地を勝ち取るために、働きが始まります。それは、

全能主の力によって成し遂げられる事柄です。どうか、「肉の我を砕き、全能主の力によってやります」

と定めて、主の御心が成し遂げられる事を願って、宣教の戦いに向かって行きましょう。


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