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2025年3月30日

『自分の都合、思い通りに生きようとすることを止め、
主に委ね、任せ、明け渡していく生き方

第Ⅰサムエル 1:1~11、黙示録 14:13


(起) サムエル記1~2章と、黙示録14章13節「今から後、主にあって死ぬ者は幸いである。彼らは

その労苦を解かれて休みを得る」
という御言葉から、「自分の都合ばかり考えて、自分の思い通りに

生きようとする事を止めて、主に委ね、主に任せ、主に明け渡していく生き方」
を学びたいと思います。

(承)さて、まずはサムエル記から学んで行きます。エルカナという人には、ハンナとペニンナという

二人の妻がいました。エルカナはハンナを愛していたのですが、ハンナには子供が産まれませんでした。

ハンナは、その事でペニンナからいじめられ、悩んでいたのです。夫から愛され、子供も生まれ、そのように

良い事ばかりが起こって来れば、悩む事などなかったのでしょうが、この世の中は、全てが自分の思い通り

にはならないという事です
。そんな中、ハンナは「自分に子供が与えられるように」と礼拝の(たび)(ごと)

祈りました。すると、彼女の祈りを聞いた祭司のエリが「全能主があなたの願いを叶えて下さるように」と

励ましました。それから(しばら)くして、全能主の御手が動き、ハンナは身ごもって男の子を産んだのです。

しかし、ハンナは「もし子供が与えられたら、その子は主に捧げます」と誓願を立てていましたので、

子供が乳離れした時、その子は祭司エリに預けられ、エリが子供を育てて行く事になりました。その子は、

素直に主に仕えて行く子供に育って行きました。しかし、祭司エリの息子たちは、祭司職を受け継ぐ子供達

でしたが、親の願い通りには育ちませんでした。エリの息子達は、祭司の特権を悪用し、民が捧げた主への

生け贄を横取りしていたのです。本来なら、主に捧げる生け贄は脂肪も全部焼かなければなりませんが、

子供達は脂肪がついた美味しい肉が食べたいからと言って、生の肉を横取りして食べていたのです。この

ように、子供たちのよこしまな罪は、全能主の前で非常に大きかったのです。しかし、人間というのは、

たとえ自分が全能主に仕えて行く者だと分かっていても、その時の損得で物事を考え、自分の好き勝手な事を

思い通りに()ろうとする、邪悪な心もあるのです。ですから、私達は、自分の思い通りにしたいという

肉の思いや、損得の心を砕いて行かなければ、全能主と心を一つにする事はできません。


(転)さて、そのことは新約の時代においても同じように言える事です。今度は黙示録を見て行きますが、

患難時代に入ると、全能主が人間に対して3つの災いと最後の災いを与えます。そして、12章17節を

見ますと、「龍サタンは、イスラエルから、迫害の鉾先をクリスチャンに定め、全能主の戒めを守り、

イエス・キリストの証を保っている者達に対して、戦いを挑むために出て行った」とあります。という

ことは、クリスチャン達が皆、龍サタンの餌食になって行くのです。13章7節に、「獣は、聖徒に戦いを

挑んで、これに勝つことを許され、すべての部族、民族、諸国語、民を支配する権威が与えられた」


ある通り、クリスチャンたちは、獣がこの世界を支配し、迫害される(ただ)中に置かれます。そして一切の

自由が奪われ、自分の思い通りにはできない世界に強制的に放り込まれます。そのような状況におかれて

喜べる人は誰もいません。多くのクリスチャンが「嫌だ、耐えられない」という思いに捕らわれ、自分を

守ろうとしてしまいます。しかし、14章13節を見ると、「今から後、主にあって死ぬ者は幸いである」

と書かれています。どうすれば、そのように(いさぎよ)く殉教出来るのでしょうか。それは、「嫌だ、耐えられ

ない」という我を砕き、自分の命を主に明け渡し(ゆだ)ねし、お(まか)せする事です。その心を持った

者は、「死に至るまで忠実でありなさい」という御心に従って命を閉じ、その後一切の労苦から解き放されて、

休む事ができる世界に入るのです(黙14:13)
。本当のところ、私達が一番求めているものは、この世の

一切の労苦から解かれて休む事ではないでしょうか。この世の中は自分の思い通りにならない
事ばかり

ですし、そこにストレスがあります。しかし、「その労苦から解放されて、休みを得る世界に入れられた

ならば、どんなに幸いでしょうか」というのが黙示録のメッセージです。即ち、「自分の内側から出てくる

邪悪な我を砕いて主に委ねる」という信仰を表せば、その世界に入れて頂けるのです。しかし、我を砕く事が

できず、獣の印の666を打ったら、どうなるかと言えば「全能主の激しい怒りのぶどう酒を飲まされ、

火と硫黄とで苦しめられ、昼も夜も休みを得ない」(14:9~11)
と書いてある通りです。私達はその

どちらを選ぶのでしょうか。
(結) 私達はずっと砕かれた悔いし心を学んできましたが、「どうして、

砕かれた悔いし心が必要か」と言いますと、「患難時代に背教せず、信じ通す為」です。患難時代は全世界に

起こる事ですから、その苦しみから逃げたいと思っても逃げられません。その中にあって、背教せず、

最後まで主を信じて従い通す為には、「自分の思い通りにしたい」、「自分にはこれしかできません」という

我を砕き、「主に自分自身を明け渡して、委ねて行く心」
を今持たなければならないのです。患難時代に

入ってしまってからでは、もう遅いのです。災い(わざわ)が降りかかってくる(まっ)只中(ただなか)で、「私の魂を

主に委ねます」と言う事のできる心の余裕はありません。ですから、「主にあって死ぬ者は、労苦を解かれて

休む事ができる」と提示されている時に、その御言葉を信じ、心を開いて、「分かりました。この命を主に

任せます」と決めるのです。どうか、もう自分の都合ばかり考えて、自分の思い通りに生きる事を止めて、

主に委ね、主に任せ、主に明け渡して行く考え方に変えて行きましょう。


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