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2025年4月6日

「聖なる都エルサレム」を目指す地上の歩み方

ヨハネの黙示録 22:1~5


(起) 黙示録22章から「聖書は真実である」という大前提から、全能主の下にあって、自分の我を

徹底的に砕き、死に至るまで忠実な心で「聖なる都エルサレム」を目指して行く、地上の歩み方に

ついて学んで行きたいと思います。


(承)さて、お読みした黙示録22章の中に記された「聖なる都エルサレムの光景」は最高です。

そこには、「呪われるものは何一(なにひと)つなく、水晶のように輝く、いのちの水のきよい川の流れが

あり、その川の両岸には、いのちの木があります。」この都に入った者、「命の水を飲み、命の木から

その実を取って食べること」
が許され(黙21:6,2:7)、永遠に生きるのです。もはや、創世記で

禁止された世界ではないのです。
ですから、主に贖われた者は、皆この聖なる都に入りたいと切望する

筈です。ところが、キリストの花嫁である聖なる都に入るには一つの条件があります。それは、「勝利を

得る者」となる事です(黙21:7)。勝利を得る者というのは、患難時代において、最後まで純粋に

イエス様を信じて従い通した者たちのことです
。即ち、死に至るまで忠実に主に従い通した者たち

だけが、小羊の花嫁として聖なる都の中に入り、そこに住む事ができるのです。ところが、私達は

罪人で、信じる前も信じてからも、全能主に逆らうような事ばかりやってきました。要するに、全能

主に対して当たり前のように御利益を願い、また背を向け、不信感を(つの)らせて疑ってきました。

このように、不平ばかり述べ、不信仰な行動をしてきた者は、御国に入る事も聖なる都に入れて頂く事も

できません。ですから、今からでも悔いて心の転換を図り、本気で主を信頼して従って行く者になる

べきです。


(転)では、私達の不信仰というものは、私たちのどこから出て来るのでしょうか。それは、「信仰

上の事さえ自分の損得勘定で考えようとし、また、自己主張を当然の権利と思う思い上がり」などが

原因です。本来の私達は自分の手足の一つさえ造っていません。まして、命の基である心臓、物事を

判断する知性と運動する感覚など、自分で創造したものは、一つもありません。それにも関わらず、

私達は、「私たちの命を創られた叡智(えいち)()まれる全能主に対して」対等のような意識を持って

不平を並べています。こんな自分勝手な我が(まま)な心を、子供の頃から抱いているのが不信仰の原因

です。その原因の基は、アダムとエバが悪魔に騙されて、禁断の「善悪を知る木の実」を食べた時から

始まりました。案の定、知性を得た人間は、この時から全能主の上に立ち、自分の考えで物事を

判断し、自分の思うように全てを解決しようと思い上がったのです。善悪を知る木の実を食べる前は、

全能主だけが正しいお方として、当然のごとく全能主の考えに従って生きることが、当たり前の事

でした。しかし、善悪を知る木の実を食べて、知識を得た人間は、全能主から離れて独立し、自分の

都合で善悪の判断をするようになったのです。
即ち、「何が正しくて、何が正しくない」かは、その人

自身の感覚で決め、また「自分に出来る事か、出来ない事か」という自分勝手な都合で決めるように

なったのです。ですから、ここから客観的な正しさを失い、生きる土台を失ってしまったのです。

すべての事の正しさは、全能主の御心かどうかで決まるのです。何故なら、全能主が私たちの命の

産みの親だからです
。それを傲慢にも、自分にメリットがあるかないかで、事の正否を決めるように

なったのは、人間が全能主よりも上に立とうとする思い上がりが出て来たからです。根本的に、自分の

命は自分のものではないのです。この事を(わきま)えるなら、真理は自分の感情次第、また個人個人の

判断次第というのは間違っています。ですから、クリスチャンでさえ、聖書を読んで「自分には出来

ない」と思えば無視し、「この御言葉はおかしい」と思えば、自分の考えに合わせて解釈しようとし、

自分が聖書より上に立ち、全能主から離れて行くという事が簡単に起こってくるようになったのです。

これは、絶対に間違っています。私達は、善悪を知る木の実を食べる前に判断していた「全能主だけが

正しいので、全能主の御心だけを聞く」という所に戻るべきです。
即ち、どこまでも「聖書は正しい。

全能主は正しい。イエス様は正しい」という前提で、全ての事を全能主に任せ、信頼し全能主に委ねて

いく心を持つことです。絶対に、自分という者の主観に根拠を置いてはいけないのです。即ち、私達は、

「自分はこう思う」、「自分はこう考える」という、我に聞こうとするのを止め、キッパリおさらば

するのです。そして、全能主だけに望みを置き、どこまでも聖書の考えに合わせて行こうとする素直な

心に変えていくのです。
その為には、まず全能主の国と全能主の義を追い求めて行くと決めるべき

です。即ち、イエス様は正しいお方ですから、自分のハードルを持たず、「喜んで言われた通りにして

行きます」という気持ちで、主の御心に同意し、どこまでも主に付いて行こうとするのです。これが、

キリストの花嫁の生き方です。そして、その時にもう一つ大切な事は、キリストと人に仕えて行く

為には、「相手が何をしようとしているのか、何を考えているのか、何を求めているのか」という事を

理解する心を持つ事です。それがないと、ただ自分の考え、自分の思いを相手に押し付けるだけに

なってしまいます。それでは、全能主の御心に従う事が出来ません。ただ、自己流の仕え方になって

しまいます。ですから、どこまでも主に仕えて行く者になりたいと思うなら、「人の気持ちを理解

できる心を下さい」と祈って行くべきです。そして、自我を砕き、どこまでも仕えて行こうとする心に

変えていくのです。


(結)御言葉は、永遠に変わりません。ですから、私達は主に祈り、聖書をよく読んで、「何が正しくて、

何が正しくないか」を理解して行くのです。主に祈らずに、勝手に自分で判断しようとする所から、

不信仰になるのです。不信仰の者は聖なる都には入れません。どうか、「善し悪しを判断する基準は

自分にはない」という事を覚えて下さい。そして、「全能主の言われる通りにします」という柔らかい

心を持つ事ができれば、死に至るまで忠実な者となって、いのちの水に導かれて行く者となるでしょう。

私達はここまで聖書を読み切ったのですから、本気で「聖なる都エルサレム」を目指そうではありま

せんか。どこまでも、「聖書が正しい」という基準に立って、自我を砕き、下手に出て主にお仕えすると、

定めて行きましょう。


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