2025年3月23日
『殉教の覚悟をもって主に従い通すこと』
~サルデスの教会に宛てた手紙より~
ヨハネの黙示録 3:1~6
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(起) 黙示録3章のサルデスの教会に宛てられた御言葉から、「あなたが生きているというのは
名だけで、実は死んでいる」ということが、どういう状態なのかを学び、終わりの時代にあって「殉教の
覚悟をもって主に従い通すこと」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、七つの教会に宛てられた手紙の内容は、各時代の世界の動きを預言しているのではなく、
「教会には、こういう戦いが、いつの時代にもある」ということの警告として語られ、その戦いから『勝利を
得る者』となるようにと勧めている、イエス様からのメッセージです。ですから、教会は地に下った悪魔との
戦いに「勝利を得て、約束された聖なる都に入ること」を強く勧められているのです。例えば、サルデスの
教会は「生きているというのは名だけで、実は死んでいる教会」であり、ラオデキヤの教会は「生ぬるい
教会」と言われています。ですから、考えを入れ替えて、「死に至るまで忠実」であるようにと、メッセージ
されているのです。即ち、こういう状況が今日の教会にもあるからです。また、スミルナの教会は、
「ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人ではなく、サタンの会堂に属する者達から浴びせられた
罵りも私は知っている」と言われています。「ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人ではない」
事については、今日の終わりの時代に至って、実際に明らかになって来たことですが、ユダヤ人と
自称してはいるが、その実はサタンの会堂に属して、悪魔礼拝をしている組織が、新しい世界秩序(NWO)を
人間の手で作り上げて、世界を統一し、富の分配と食料の分配を平等に分け与える世界を作り上げようと
しています。そして、それを666の出現によって、現実の事とする動きが存在するのです。そのような
世界の動きが、現実に明らかになって来ており、今まさに終わりの時代に入ってきているという事を、聖書は
指し示しています。そういう中で、私達が終わりの時代の集大成のために働くという事は、一言で言えば、
「全能主のために死ぬ」という事です。というのは、患難時代に入ると、6章9節にあるように、小羊の
証しの為に殺された殉教者の霊魂が、「いつまであなたは裁く事をなさらず、私達の血の報復をなさらないの
ですか」と叫んだ時、「あなた方と同じく殺されようとする仲間や、兄弟達の数が満ちるまで、もうしばらくの
間休んでいなさい」と言われる時代が来るからです。なぜなら、患難時代では、全能主のために死ぬ殉教が
必ず起こって来ることが、定まっているのです。この事が、いつ、どこで成就するのかというと、13章で
「666の獣が、聖徒達に戦いを挑んで勝つことが許され、支配する権威が与えられた」(黙13:7)
という時から起こって来ます。そして、14章12節には、「全能主の戒めを守り、イエスを信じ仰ぐ心を
持ち続ける者達がいる。ここに、聖徒の忍耐がある」とあり、13節に、「今から後、主にあって死ぬ者は
幸いである」とあります。という事は、14章では、獣から迫害を受けて殺される者達の数が満ちるという
事です。ですから、私達にとって殉教を覚悟しつつ、本気でキリストを証して行く時代が、これから
やって来るのです。
(転)では、私達がイエス・キリストを本気で証して行くために、必要な心構えとは何でしょうか。
それは、「生きているというのは名だけで、実は死んでいる教会」にならないことです。それは、患難時代に
入った時に背教せず、「最後まで、全能主を信じて従う」、生きた信仰の教会であるべきだからです。その為に、
今の時から「自分を守ろうとする面子を砕き」、「罪に対して素直に悔いて、下手に出ることを実践して
いくこと」です。即ち、「砕かれた・悔いし心」を持つことです。何故かと申しますと、迫害の中に置かれると、
「嫌だ、できない」という思いが必ず出てきます。普段から自分の都合を第一に考えている人は、自分の
都合が悪くなると「嫌だ、できない」という自己主張が出て来て、自分を守る意識が強くなり、全能主より、
自分の肉の気持ちに従ってしまいます。すると、全能主の御心に従った行動は取れません。ですから、今の
私達にとって一番重要な事は何かと言うと、自分を守る思いを砕く事です。例えば、ちょっと指摘されたり、
失敗の原因を作ったときに、「自分がやった事に対して怒られたり、自分の存在を否定された瞬間に、
自分を守ろうとする心が出てきます」が、その心からは絶対に離れなければなりません。自分の思いを
砕くと、「なぜ自分が怒られているのか」という事が見えて来ます。そして、「自分が間違っていました」
と素直に謝る事ができるのです。確かに、自分が一方的に怒られるようなことは、我慢できないかも知れま
せん。しかし、獣の前では、その圧力は強く、もし自分を守ろうとすると、獣に簡単に従おうとしてしまい
ます。それは最悪です。ですから、キリストの証を立てることは、自分を守る心を持っていたら出来ないの
です。ですから、私達はどこまでも、たとえ理不尽なことが起こって来ても、信仰に立とうと思うなら、
自分の思いを砕く訓練が必要なのです。それを、今のうちに収得していくことです。即ち、自分のことより、
全能主を第一にする心構えを身につけることです。その第一歩が、下手に出てへり下り、自分の肉の心から
離れる心を身につけることです。それが、自我を砕くということです。その心が身に着けば、私達は主の
証のために死ぬ事も、由となるのです。人間は、死ぬという事を一番嫌います。最後の最後まで、
「これだけは守りたい」という気持ちになります。しかし、その思いを砕いて、「私達の命はイエス様の
ものです」と宣言することです。これが、「兄弟達は、小羊の血と、彼らの証の言葉とによって、その龍に
打ち勝ち、死に至るまでも自分たちの命を惜しまなかった」(黙12:11)ということです。この証を
立てるために、大切な要素は、自分の都合ばかり考えている、「自分さえ良ければいい」という、お一人様
根性を捨てることです。
(結)私達の命は罪人の命で、裁かれて当然の命でした。ところが、その罪人の命のために、イエス様が
十字架にかかり、ハデスにまで行って、私達の罪の償いを成し遂げて下さいました。という事は、私達の
命はイエス様に在ってこその命です。ここで、自分を守る思いを持っていたら、イエス様のために使えま
せん。だから、私達はお一人様根性を砕くのです。自分を守ろうとする心は砕いて、下手に出る悔いし心が
絶対に必要です。七つの教会に宛てられた「死に至るまで忠実でありなさい」という殉教の手紙は、いつの
時代にも求められているクリスチャンの証です。ですから、黙示録は決して他人事ではありません。
私たちは、自分の我、自分を守ろうとする意識を砕き、怒られた時には、素直に「自分が間違ってい
ました」と悔いて、「言われた通りにします」という心を表すのです。その心は獣の前に出た時に、
「自分の命を主に預けます」と言って、魂を主に委ねることです。どうか、「あなたが生きているというのは
名だけで、実は死んでいる」という、頭だけの信仰ではなく、「砕かれた悔いし心」を、日常の現場で身に
着け、そして、終わりの時代にあって「殉教の覚悟をもって主に従い通す」ために、信仰の訓練をして
行きましょう。
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