2025年3月16日
『律法から解放された自由の中で、
全能主から絶対に離れないで信じ続けて行く生涯』
ローマ人への手紙 7:7~25
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(起) ロマ書7章、8章の御言葉から、「律法から解放された自由の中で、全能主から絶対に離れないで
信じ続けて行く生涯」を全うして行く事について学びたいと思います。
(承)さて、パウロは、「人は律法によっては義とされない。キリスト・イエスを信じる信仰によって
義とされる」(ロマ3:28)という事を主から示されました。それ故にパウロは、「人は、律法からも
完全に解放されている」(ロマ7:6)という聖書の真理をはっきりと語ったのです。ですから、私達も
この真理の故に、イエス様を信じた時に救われた者の開放感を味わい、律法から解放された事の安らぎを
味わいました。ところが、その開放感も束の間のことで、その後に聖書を読み始めた時、改めて
戒めが入り込んできて、罪が息を吹き返してしまったのです(ロマ7:9)。即ち、「『馬鹿者』と言う者は
誰でも、火の燃えるゲヘナの中に投げ込まれる」とか、「もしあなたの目が罪を犯させるなら、それをえぐり
出して捨てなさい。もしあなたの手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい」という、実に高度な、
聖書の戒めを読んだ時、パウロと同じように私たちは、「やっぱり自分は罪人で駄目な者だ」という処に
陥ってしまいました。この罪責感は未信者時代にもあったもので、そこから救われることを願って信じた
筈なのに、信じてからは、信じる以前よりも罪の深さに悩み、苦しむようになってしまったのです。
そして、18節にあるように、「私の肉の性質の中には善が宿っていない。善をしようとする意志はあっても、
それをする力がない」という罪人の姿を思い知らされて、救いの中に入れられた筈だったのに、
却って「罪の法則」の中に虜にされている状況を再認識させられたのです(7:23)。この状態を
パウロ自身が、「私は、なんという惨めな人間なのでしょう」と、告白しています。これが、多くの
クリスチャンにとっても、解決されていない悩みの種になっているのです。
(転)そこで、パウロはこの問題点の解決策を、ロマ書8章で解き明かしています。「肉の性質に従って
歩まず、御霊によって歩む私達の内に、律法の要求が満たされるのです」(ロマ8:4)と伝え、「御霊の
法則は、罪と死との法則からあなたを解放したのです」(ロマ8:2)と語っています。その根拠として
「全能主は御自分の御子を罪の肉の姿をもって遣わし、私達の罪のために、肉をもって罪を処罰して
下さったからです」(ロマ8:3)とあります。即ち、イエス様が人間の罪の肉を背負って下さり、ハデスにまで
行って、私達の肉の処罰を全て終わらせて下さったアオリストの救いにあずかったからです。ですから、
「私達が今、肉体にあって生きているのは、…御子を信じ仰ぐ事によって、生きているのです」(ガラテヤ
2:20)と証言し、パウロは、クリスチャンが罪の肉から解放された真理をはっきり語っています。
しかしながら、私達は、「御霊によって歩む」事が、その解決策であることは聖書の論理では分かるのですが、
実生活の中では、御霊によって解放されている事実を味わっている訳ではありません。それは、信じた
クリスチャンの性質がガラッと変えられた訳ではないからです。現実の生活の中では、罪の肉が完全に
取り去られ、「罪の法則の中」ではなく「御霊の法則の中」に入れられて、「罪の苦しみから解放された者」
とはなっていないのです。このような中にあって、私達はどのように御霊によって歩んで行けば良いのか、
知りたいのです。それは、先週学んだように、今出来ることは、少なくとも「御霊に責められない、また
信仰が害されない中で、肉の思いとは、ほどほどの付き合いをして、ストレスを解消しつつ、最後まで主を
信じ通して行く事です。なぜなら、私達は肉にあって生きているのは事実ですから、何もかも、罪の肉を
律法によって抑えつけて行こうとしても、無理があります。なぜなら、肉は、律法に逆らうからです(ロマ
7:8)。それによって肉が逆襲して爆発し、信仰さえも放棄してしまう事があるのです。ですから、
律法から解放された私達の自由を「放縦に走らない程度に」ほどほどに満たしてやるしかありません。
なぜなら、全能主は「罪を犯したらもう駄目だ」と言っておられるのではなく、「もし罪を犯した場合、
メンツや言い訳を砕いて、自分が悪かったと素直に認める、「その砕かれた悔いし心があれば、それで良い」
と、ダビデを通して語って下さっている(詩篇51:16,17)からです。ですから、もし罪を犯して
しまった場合でも「自分の罪を度毎に認め、告白し続けるなら、…一つ一つの不義からきよめて
下さる」(第Ⅰヨハネ1:9)とあるのです。その為、私達は、最低限「砕かれた悔いし心を持って、自分の
罪を認めて行くべき」です。聖書に、このように書いてあるという事は、「人間は罪を犯す可能性がある」
という事を前提として、キリストのアオリストの救いの中に入れて下さったのです。つまり、肉の中に
ありながらも信仰を持ち続けて行く、私達の信仰の道が用意されていたということです。だから、この
生き方が、今の私達にできる最低限の「御霊による歩み」なのです。キリストの救いは、全部アオリスト形
ですので、この地上で生きている間は、罪の肉の中にある事は否定できません。
(結)このように、私達はイエス様の贖いの故に、律法から解放され、キリストを信じる信仰によって、
御霊によって生きる者とされました。とはいえ、実際に「御霊によって生きる」ということが、いつも
出来るわけではありません。罪の肉がなくなっている訳ではないからです。ですから、24時間、四六時中
いつも「御霊によって歩む」ことは難しいことです。この現実の中に置かれた者としては、肉とは、
ほどほどの付き合いをして、ストレスを解消して行くしかありません。しかし、どこまでいっても、
その目的は私達の信仰を犠牲にしないためです。そして、その中にあって、もし肉による罪を犯して
しまった場合、絶対に弁解、言い訳、言い返しをせず、素直に罪を犯した自分の心を砕いて、「砕かれた
悔いし心を持って罪を認め」、「間違っていました」と下手に出て、へりくだって行くならば、全能主も
それ以上追い込むことはされません。これが今、私達に出来る「御霊によって生きて行く心」なのです。
どうか、罪を認める「砕かれた、悔いし心」をもって、律法から解放された平安の中で、全能主から絶対に
離れない信仰の生涯を全うしようではありませんか。
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