2025年3月9日
『「自由の律法」の中に入れられていても、
肉にあって生きているクリスチャンは、 どのような信仰の歩みをするのか』
ヤコブの手紙 2:12
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(起) ヤコブ書2章12節の御言葉から、私達は「自由の律法」の中に入れられている者として、
「肉にあって生きているクリスチャンが、どのような信仰の歩みをして行けばいいのか」を学びたいと
思います。
(承)さて、聖書の中には、あらゆる箇所に律法的な内容が記されています。ヤコブの手紙は初めから
戒めの内容が満ちています。特に1章14、15節を見ますと、「人は、それぞれが、自分の欲に
引かれ、おびき寄せられて誘惑されるのです。欲に捕えられて罪を生み、罪が熟すると死を生みます」
とあります。これは、確かにその通りです。しかし、欲というものは、人の心の中から自然に湧き出て
くるものです。食欲も欲です。生きたいと思う事も欲です。それを全部捨てろという事は、人間を
やめろという事と同じです。となると、これは非常に厳しい律法です。2章に入っても、「人に対して
分け隔てをするな」とか、「たった一点でも落ち度があるなら、それは律法全体を犯したことになる」
とあるように、実に厳しい内容の戒めばかりです。はっきり言って、私達はこの律法を守れません。
現実には、「守れない」というよりも、「律法を無視しなければ人間は生きて行けない」とも言えます。
もし、戒めを100%守らなければ駄目だと言われたなら、私達は行き場所を失います。しかしながら、
聖書というのは、一面だけ読んでいては正しい理解には至りません。そこで、先を読み進めて行き
ますと、2章12節に、「だから、あなた方は、自由の律法によって裁かれる者らしく語り、このように
行いなさい」と出てきます。この「自由の律法」とは、一言で言うならば、「信仰によって歩めば良し」
と言うことです。なぜなら、アオリストの救いに預かったクリスチャンは、律法から解放されており、
過去・現在・未来に至るまでの罪が赦されており、「律法の下にはなく、恵みの下にある」からです。
しかし、だからと言って、「私達は罪を犯してもいいとか、何でも自由にやっていいのか」というと、
そうではありません。聖書はそれを許していません。即ち、「罪人として赦されていても、敢えて
罪の中に歩む放縦は赦されていない」という事です。聖書には、その二面性があります。
(転)では、私達はどうしたら良いのでしょうか。聖書の真理に基づく正しい歩みは、あえて放縦の
道には走らないということです。なぜなら、クリスチャンは、キリストのアオリストの救いを頂いた事を
感謝する方向に向かうからです。しかし、感謝したからといって、完全に良い子になれる訳ではありま
せん。信じた後でも、肉の性質はなくなりませんので、罪を犯してしまう可能性が十分あるからです。
それではどのように歩んでいけば、いいのでしょうか。まず、パウロは言います。「私達の罪深い肉に
関する問題は、イエス様の償いによって、贖いが完全に成し遂げられています」と語っており、その
理由がロマ書8章3節に記されています。「全能主は、御自分の御子を罪の肉の姿をもって遣わし、
私たちの罪のために肉をもって罪を処罰して下さったのです。」即ち、私達の罪深い肉の処罰は、
イエス様が人間の罪の肉を背負って下さり、ハデスにまで行って私達の肉の処罰を全て終わらせて
下さったのです。ですから、「私達が今、肉体にあって生きているのは、…御子を信じ仰ぐことに
よって、生きているのです」(ガラテヤ2:20)と、はっきり言っています。ということは、「私たちは、
肉にあって生きていても、肉の性質に従って生きる義務を負っていない」(ロマ8:12)のです。
ならば、肉の贖いを成し終えて下さったイエス様に感謝し、この肉体にあって生きていても、全能主の
御心の中を歩むことが出来るということです。ですから、あえて放縦には走らない生き方をするのが
クリスチャンの正しい生き方です。しかし、キリストのアオリストの救いによって、過去、現在、未来に
至るまでの罪の贖いが成されてはいても、この地上で生きている間は、クリスチャンは罪の肉の中にある
ことは否定できません。ですから、もし、罪を犯した場合には、第Ⅰヨハネ1章9節にあるように「自分の
罪を度毎に認め、告白し続けるなら、…一つ一つの不義からきよめて下さる」という生き方が出来るの
です。これは、全てアオリストの救いのお蔭です。この事が分かれば、クリスチャンがどのように
歩むかは、自ずから答えが出て来ます。即ち、肉にあっても、「主に信頼せよ。主が成し遂げて
下さる」という、「御子に頼って生きて行く」歩み方です。その例として記されているのが、アブラハム
です。彼は信仰によって義とされた人ですが、この世の義人ではありません。彼は、地上においては
「罪の中にあった人」です。しかし、主から「イサクを捧げるように」と言われた時に、それを拒否せずに
行いました。その事が出来たのは、主の助けがあったからです。即ち、御霊が「たとえ、イサクが
死んでも、全能主は甦らせて下さる」という「主を信頼する心」を下さり、彼はそれを信じて行い
ました。ですから、「御子に頼って生きて行く」とは、そういう事なのです。結局、全能主が成し遂げて
下さったという事です。私達も、そういう心で全能主に信頼して行けば良いのです。即ち、私達が
信じたという事実、救われたという事実は変わらないのですから、「イエス様の救いを信じ続けて
行くが故に、主を信頼し、主に心を向けて行く」という事です。これが、聖書が教えている、自由の
律法の中にある者の信仰による生き方です。
(結)こういうわけで、この地上では、私達は肉にあって生きている者ですから、律法によって義を
得ることは出来ません。その為、イエス様は律法を廃棄され(ヘブル10:9)、贖いによって救いの
道を開いて下さったのです。故に、「モーセの律法では義とされることのできなかったすべての事に
ついて、信じる者は誰でも、このイエスによって義とされるのです」(使徒13:39)。ですから、
私達は律法の下にはなく、信仰の下にあります。このような真理の故に、「一方では罪に対して死んだ
ように、他方では主イエス・キリストにあって生きて行く者である」(ロマ6:11)という生き方を
して行きます。即ち、この生き方が、「自由の律法」の中で歩んでいくことなのです。それは、御霊の
助けによる自由意思によって、全能主の御心の中を歩む事です。しかし、だからといって肉が無くなって
いる訳ではありませんので、肉の願望も出て来るでしょう。そして、その肉を律法によって完全に
無視する事が出来ない時もあります。そこで、その肉に関する「真理の二面性」として、御霊に責められ
ない中で、また信仰が害されない中で、肉の思いとは、ほどほどの付き合いをして、ストレスを解消して
行ってもいいのです。もし、何もかも肉を律法によって抑え続けて行けば、肉が逆襲して爆発し、
信仰さえも放棄してしまうからです。ですから、私達の自由を放縦に走らない程度に、ほどほどに
満たしてやってもいいのです。すると、肉が落ち着き、霊的な方向に心を向けて、新たに信仰の高嶺を
目指して行くことも出来るでしょう。それは、「自由の律法」の中で生きる者とされたからです。ただ、
その自由のさじ加減は、絶対に信仰を犠牲にしてはならないことです。それ故に、自分の肉を節制して、
ほどほどを越えてしまわないように処するのです。しかし、どんなことがあっても、イエス様の
救いはアオリストですから、赦しはあります。私達は、「自由の律法」の中に入れられているのですから、
前向きな心を持って、ひたすら主を信頼し、主のために生きて行く本筋の歩みを、大胆に始め出そうでは
ありませんか。
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