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2025年10月26日

たとえ、泥を(かぶ)るはめになろうとも』

使徒の働き 2:22~24、30~32 


(起) 使徒行伝2章の御言葉から、「たとえ、泥を(かぶ)るはめになろうが、主を見上げて、キリストを

大胆に証して行く事」
を学んで行きたいと思います。
まず、創造主の存在について、「血液が戻って

くる仕組み」から見ていきます。聖書には、「全能主は
御旨のままに器官をそれぞれ体に備えられたの

です。」(Ⅰコリント12章18節)と記しています。
そこで、血液の流れの仕組みを見ますと、心臓

から押し出された大動脈の血圧は、一般に水銀柱で120mmHgあり、毛細血管に到達したときには

10mmHgまで低下して行きます。そして、血液が大静脈に戻る時には
ほぼ0mmHgになります。

それでは、自力で重力に逆らって心臓まで戻ってくることができません。そこで
、第二の心臓とも呼ば

れる(ふく)(はぎ)が、筋力の作用で、静脈の血管を圧迫し、血流を起こします。しかしその血流は

上下方向にも(しょう)じるので、静脈には、逆流防止弁がついており、心臓方向にのみ血流を押し出します。

この筋力ポンプ作用こそ、重力に逆らって心臓まで戻る力を生む大切な器官です。即ち、心臓だけ
では血液

を循環させることはできませんので、(ふく)(はぎ)がその仕組みを補っているのです。
この仕組みは偶然

にできたのでしょうか。進化の過程で徐々に出来たとするなら、心臓だけでは血液循環が行われず、40兆

にも及ぶ細胞の老廃物を運び出すことが出来ません。すると生命は死に絶えてしまいます。ですから、人間

の生まれる仕組みは、初めから隅々まで考え尽くされて完成されていなければならないのです
この命の

仕組みは、人間の知恵をはるかに超えた、偉大な「サムシング・グレイト」というお方がいなければ
、成立

できない仕組みです。この事に関して、聖書には明確な証言があります。「全能主は御旨のままに器官を

それぞれ体に備えられた」
と。ですから、この「サムシング・グレイト」は、「全能主である、ヤハウェ」

であると紹介し、「その方が目的に従って各器官を設計され、創られたこと」が、被造物によって

明瞭に
認められているのです。

(承)さて、私達の命が全能主によって創られた命なら、この命は「自分のものではなく、全能主のもの」

です。すると、私達は全能主の御心に沿って生きて行かなければなりません。そこで、その全能主の御心

とは何か
という事が、今日お読みした使徒行伝の御言葉の中に書いてあります。人間はサタンに騙され、

魔物が人の心の中に入りました。しかし、全能主は、人の罪の贖いの為に、イエス様を身代わりに

立てられ、
罪からの救いを用意されました。それによって、「イエス様の身代わりを信じる者には、赦し

を与える」という全能主の計画が立てられていたのです
。しかも、イエス・キリストの贖いはアオリスト

形ですから、過去・現在・未来の罪に対して有効とされました。この故に、私達は今現在、罪深い肉を

持っているというハンディはあっても、イエス様のアオリストの贖いを信じる事によって罪赦された者と

されているのです。ですから、信じた者は、天に迎えられるという前提で生きて行くべきです。即ち、もう

自分の為に生きるのではなく、主の為に生きるという事です。
その具体的な生き方は、私達の罪の代価を

払って下さったイエス様は甦って「今は生きておられる」(あかし)し、「生きておられるイエス様に、

どこまでも信頼して行く」
というメッセージを、人々に大胆に語って行くということです

転)ところが、私達がその(あかし)をして行くと、この地上では迫害を受けます。この世界は、悪魔が

牛耳って
いるからです。その為、キリストを証しする者は、ことごとく殉教して行きました。しかし、

クリスチャンがキリストを証して行くと、辱めを受け、キリストの故に泥を被ることになります。しかし、


既に、イエス様が私たちのために、十字架上であれだけの泥を被って、罪の贖いをして下さったのですか

ら、それを思うと平安が来ます。
ところが、自分の罪の為の泥を被る場合は、逃げ出したくなります。

それは、自分の面子を保ち、恥を受けたくないからです。しかし、私たちは、元々地上にあっては、自分

の罪深さ、愚かさ、ダメさ加減を嫌という程に味わってきました。
ですから、今更、泥を被ることから

逃げようとしても、解決はありません。どこまでも、
魔物の声は、「面子を失えば(つぶ)されるぞ」
と脅か

してきます。しかし、たとえ自分の罪の為に泥を(かぶ)せられる事があっても、救い主なるイエス様が背後に

いて下さるのですから、うろたえる必要はありません。だから、目を覚まして下さい
「悪魔は吠え(たけ)

ライオンのように、食い尽くすべき者を探し回っている」のです。「騙されてはいけま
せん。」私たち

が弱いのではなく、悪魔が食い尽くそうと、脅かしているだけです。はっきり言って、信じてから

でも、私達がどうにもならない罪を抱え込んでいる事は事実です。しかし、主が泥を被って罪の問題は解決

している
のですから、「泥を被りたくない」と言って逃げ出す必要はないのです。逃げたとしても、

罪が無くなる訳ではありません。ですから、罪深い自分が愚かな事をしてしまった時には、その事実

下手に出て認め、非難を受ける泥は潔く被ってください。そして、辱めを受けて罪を認めた者は、

主が
軽んじられないのですから、平安が来ます。だから、ただ主を見上げ、主を信じ仰ぐ心によって

歩み
出せるのです。たとえ、悪魔が支配する世界でも、私たちには勝利があります。


(結) 私達がキリストを証して行くのは、「キリストが私たちの罪の泥を被って下さった事実」を証して

いく事です。それなら、私たちの残りの生涯、たとえ、キリストのために泥を被ることになっても、

この肉体と命とを、主の為に献げて行こうではないですか。
それは「キリストの為に辱められる者と

されたことを、
喜べるからです。」しかも、泥を被って辱めを受けたとしても、地獄に行く訳ではありま

せん。それは、前もって
キリストが十字架で全ての泥を被って下さったのですから。私達はもう自分で

自分を守って行く必要は
ありません。たとえ泥を被ろうが、自分自身を明け渡し、主を見上げて証をして

行こうではありませんか。
どうか、キリストを大胆に証して、この地上の生涯を全うして行きましょう。




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