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2025年10月19日

泥を被ってでも、イエス様を見上げる純を通して行く

マタイの福音書 26:59~68 


(起)マタイ伝26章から、「私達にはイエス様の完璧な贖いがあるのですから、自分自身の罪深さ、

愚かさを
認め、
泥を(かぶ)ってでも、イエス様を見上げる純を通して行く事」を学びたいと思います。

まず、創造のメッセージから、全能主を信じることは当然の事と確信し、全能主に従う信仰について

学びます。
この世界には「バクテリア」という微生物が存在しており、このバクテリアは、様々な生き物

糞尿死骸(
しがい)、枯れ木などを分解処理して、自然界を浄化しています。その存在は、目に見えないほど

小さく、空気中、水中、土中のどこにでも存在しており、24時間休みなく働いています。その働きを、

糞を例にして見て行きます
。ある動物が、土の上に糞をします。すると、糞が大好物なバクテリアがすぐに

やって来て、これを食べ、アンモニアを排出します。今度はアンモニアが大好物な別のバクテリアがやって

来て、これを食べて亜硝酸を排出します。そして、今度は亜硝酸が大好物な
別のバクテリアがやって

来て、これを食べて硝酸を排出します。この硝酸を植物が吸収して光合成のために利用
します。

このように、個々の行為が食物連鎖のようにして繋がり、自然環境をきれいに保っているのです。

なんと見事な
システムでしょうか。これは、生き物たちが互いに相談して役割分担したのでしょうか?

また、人間が仕組んだのでしょうか?いいえ、私たちの知らない中で、人間が生きて行くための環境を

整えるため、
初めから、この地上にあったシステムです。もし、これが進化の過程で仕組まれて来たと

するなら、それまでの地球環境は、ゴミだらけの世界になって、生物が生きていける環境は破壊されて

いたことでしょう。ですから、この世界は、初めから全てがファイン・チューニングして仕組まれていな

ければ、生物は存在できなかったのです
。即ち、この自然界は
人間以上の叡智と技術力のある偉大なお方

がいて、初めて成り立つのです。
それは、人間が生きていく、環境の全てを創り上げられた方の存在が

あって成立することだからです。
その方を聖書では「全能主、ヤハウェ(固有名詞)」と証言し、その方

が目的に従って設計され、創られたことをはっきりと明らかにしています。


(承)では、この全能主の御子イエス様が十字架につけられる時の事について、マタイ伝26章から見て

行きたいと思います。67節を見ますと、ユダヤ人達は、イエス様の顔に(つば)をかけ、(こぶし)で殴りつけ、

平手で打って、「キリストよ。言い当ててみよ。あなたを打ったのは誰か」と愚弄(ぐろう)し、また、十字架に(はりつけ)

された時には、イエス様を見上げ、「もし
全能主の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて

来い」(27:40)と、暴言を吐いて(あなど)りました。彼らに「そこまで言わせたのは誰か」という

と、それは悪魔です。悪魔の中でもヤクザ的な悪霊がいて、イエス様を冒涜(ぼうとく)するように(あお)り、

ここまでのえげつない仕打ちをさせたのです。
ペテロもその悪霊にやられました。彼は、たとえあなた

一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しませんとまで言い

切った男です。
ところが、イエス様が捕えられた時には逃げ出し、大祭司の中庭で成り行きを見ている時

には、「あなたもあの人の仲間でしょう」と指摘され、彼は激しい呪いの言葉で「そんな奴なんて、知ら

ない」と誓ったのです
これが人間の心です。
多くの人は、「自分はそんな事はしない」と思うかもしれ

ませんが、えげつない悪魔の罠に()まれば、簡単にその世界に入ってしまうのです。私達の心の中に

も、ユダヤ人達やペテロと同じように、えげつない魔物が潜んでいるからです
。そういう私達を悪霊は見て

おり、特に患難時代に入ったら、私達を激しく脅かし、逃げ場のない所へ追いやろうとします。


(転) そこで、私達が悪魔の罠に()まりそうになった時に「必要な心構え」は何かと言えば、
泥を

被る勇気です。
それを
イエス様は表されました。イエス様は、ゲッセマネの祈りで、一度目は「もしで

きる事なら、どうか、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい」
と祈られ、二度目の時には
「わたしが

それを飲まない限り、過ぎ去る事のない杯でしたら」
祈られて、「もう分かりました」と全能主に

委ねているのです。そして、
「あなたの御心のままになさって下さい」と心を定められたのです。このよ

うに潔く
泥を被る勇気を持って、立ち上がられたのです。しかし、息を引き取る時、「わが父、わが父。

どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
と叫ばれました。それは、私達が感じるのと同じような

恐怖心、絶望感を現実に味わったからです
それでも、イエス様は御自身を全能主に委ねられました。

このように、
イエス様は
最後の最後まで泥を被り全能主に対する純な気持ちを表されたのです。

それは、全能主にどこまでも委ね切った心で、純粋な心を通されたからです
。イエス様がこれだけの事を

して下さったお陰で、私達のような罪深い者の救いが
実現したのです。それを知れば、私達は「主を

信じる」と言いながら
自分を(かば)い、泥を被りたくないと言って逃げ回るなんて事は、絶対にダメです。

どこまでも我を砕いて、「あなたはわたしに従って来なさい」と言って下さった
イエス様を見上げ、その

道を通すのです。
それが、純を通す信仰です。


(結)イエス様も、えげつない悪霊に追い詰められました。しかし、全能主を見上げ、父を信頼

して御心に従った
というのが、イエス様の証しです。私達は水の上を歩く時、つい水を見て「大丈夫だ

ろうか」「どうすれば歩けるだろうか
と疑います。それが悪魔の(おど)し所です。何故なら水を見て、

歩ける方法など見つかる訳がないからです。答えは、
イエス様を見上げ続けることです。イエス様は

全能主なる父を見上げたのです。そして、見上げて、信じて従ったのです。これが信仰の秘訣です。

自分に頼り、頭で考えると、律法的になり、出来るだろうかと(おび)えが入って、一歩も踏み出すこと

が出来なくなります。ここへ、悪魔は引きずり込むのです。即ち、自分の力に頼らせ、律法の中に

投げ込むのです
。人が律法的になると傲慢になるか、逃げ出すか、どちらかです。しかし、イエス様

のように、私達も主を見上げた時にのみ、悪霊は去って行きます。ですから、私達は自分自身の罪

深さ、愚かさに頼るのではなく、ひたすら、主を見上げ、信じて水の上を歩み続けるのです。

そして、たとえ泥を被ってでも、全能主に従うのです。このイエス様を見上げ続ける、純な信仰を

通して行こうではありませんか。 
 


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