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2024年12月8日

純真な心とは』

ピリピ人への手紙 3:11~14


(起) ピリピ書3章を通して、肉に依り頼む事をせずどこまでも主を見上げ主の御心を

追い求めて祈り
その中で決めて行く
という「純真な心」を持って、信仰の残りの生涯を全う

する事を、学んで行きたいと思います。


(承)さて、今日は「純真」という言葉を一つのテーマにしたいと思います。ピリピ人への手紙を読んで

行くと、「純真」
というキーワードが出てきます(1:10、2:15)。私達は、その「純真な心」

持って、信仰の残りの生涯を全うしたいと思うのです。そこで、「その歩みはどういうものなのか」という

事を3章から見て行きますと、3節には「キリスト・イエスを
誇りとし、肉に依り頼む事をしない私達

こそが、真の割礼の者なのです」
とあります。「肉に依り頼む事をしない」という部分が大切なところ

なのですが、パウロはその節の後に「とはいえ、私にも肉に依り頼む事なら、人に負けない
ほどあります。

私は八日目に割礼を受けた者で…律法の義については落ち度のない者でした」(3:4~6)
と言って

います。パウロは、自分自身の肉について、「落ち度がない」と言い切れるほどの自信と誇りを

持っていたと言いました。ところが、本当に落ち度がなかったなら、悩む事も一切なかった筈です。

ところが、ロマ書7章では「私の
肉の性質の中には、善が宿っていないことを私は知っています。

何故なら、善をしようとする意志はあっても、それを
する力が無いからです」と言って、自分の弱さに

嘆いています
。即ち、真面目に律法を学び、律法に従って生きて行こうとして来たにも(かか)わらず、

自分の弱さから抜け出すことが出来なかったのです。ですから、パウロは、「自分の
肉の誇りは」無益で

あったと言い、それらを「ごみ」の様に思うようになったと言っています(3:8)。そして、「私は、

律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰に基づく義を持つ者です」(3:9)
と、

(あかし)
しました。人間は、自分の弱さから出る罪を無くすことはできません。ところが、イエス様が

私達の身代わりとなって罪の贖いをして下さいました。私達は、その恩恵(おんけい)(あずか)らせて(いただ)いた

お蔭で、
原罪から解放され、(原罪とは、
アダムが全能主の(めい)(そむ)いて犯した人類最初の罪の

行為、また、人間が皆アダムの子孫として生まれながらに負う虚無性、宿罪。広辞苑より)
また、生まれ

ながらに罪人であるが故に、
今なお現在の状態がダメな者弱い者失敗する者情けない者、罪深い者

であったとしても、キリストのアオリストの究極の救いを頂いているが故に、信じた後に、たとえ罪を

犯す様なことがあったとしても、「心からその罪を悔いて告白するなら、全能主はそれらの罪を赦し、

一つ一つの不義からきよめて下さる」とあるのです。ならば、もう私たちの残りの生涯は、最後の最後まで

信じる信仰の道を歩み、信仰を(まっと)うして、命を閉じて行くのです。パウロはその心構えを持って、

残りの生涯を「私が既にそれを自分のものにしたとか、既に完全な者になっているとか言うのではなく、

何とかして
獲得しようと懸命に努めています」(3:12)
と言ったのです。即ち、「純真な心」で、

信仰の生涯を(まっと)うしようと告白していたのです。しかし、パウロが「何とかして」という言い方を

したのは、裏を返せば「何とかならない場合もある」という事です。すなわち、「一旦光を受けて、聖霊に

あずかる者となり、信じた後に、もし堕落した場合、再び考えを入れ替えて、回復させることは不可能です」

(ヘブル6:4~8)
ということも起こるからです。ですから、この世にあって最後の最後まで信じ続けて

行くことが重要であって、たとえどんなことがあっても、前のものに向かって懸命に努力し、ひたすら

復活の状態を目指して走って行くのです
。それが、全能主に対する「純真な心」であるということです。


(転)では、この世にあって最後まで信じ続けて行く為の「前に向かって行く一生懸命さ、純真な心」

とは、具体的にどういうものでしょうか。それは、私達がこの世にあって信仰を(まっと)うしようとする時、

「どうしたらいいのか」と悩む場面が
幾多とあります。その時、私達は祈るのですが、多くのクリスチャンが

祈り終わった後は、「自分の思い通り、考え通りに全能主が働いて下さる」と決めつけて、自分が求めて

いる生き方を通そうとします。
しかし、それは全能主から自分勝手な御利益を
求めようとする()り方

です
。しかし、それはいけません。なぜなら、それは祈りを利用して、肉の思いのまま突き進もうと

する事だからです。祈りは、
主の御心を追い求めることであり、主の御心を悟って、その中で決めて行く

もの
なのです
ですから、「祈りは、自分の願い通りに(かな)えて貰うことだ」と思うのは間違い

なのです
。もし自分勝手な祈りを続けて、自分の願う方向へ導いて(もら)えなかった場合、「祈ったのに

ダメだった」
と言って反発し、信仰から
離れて行く事さえ起こってくるのです。それだけ人間は自分勝手

な者で、このような、罪を抱えているのが現実です
ですから、パウロは、「私は既に獲得したなど

とは思っていません。・・・前のものに向かって懸命に努力し、
・・・ひたすら目標を目指して走って

いるのです」と言っているのです。それは、信仰は御利益ではないからです。ですから、たとえ

自分の思い通りにならなかったとしても、反抗すべきではありません。もし、本当に祈ったなら、

全能主からはっきりとした指示や答えをもらうまで、忍耐して、待ち続けるべきです。
これが「肉に

()
(たの)まない」ということであり、「どこまでも主の御心の中で歩む」という事です。とはいえ、

地上の問題について、細かい事まで天から声が
かかるかと言ったら、そうではありません。しかし、それでも

ずっと祈っていると、ふと、ある物事に目が留めさせられて
導かれる事があります。それが、摂理

というものです。その時に、御霊様に「これで良いですか」と確認すると、
御霊様が答えを下さるの

です。このように、「最後の最後まで、主の答えを待って決める」というのが、肉に依り頼む事を

せず、
「どこまでも主を見上げ、主の御心を追い求めて祈り、その中で決めて行く」という「純真な心」

信仰なの
です。

(結)私達の残りの生涯は、「自分の肉で決めずに、どこまでも主の御心を求めて、その中で決めて行く」

という事です。それが、パウロさんが言う「私が、既に完全な者になったというのではなく、何とか

して獲得しようと懸命に
努めています」(3:12)と言った、パウロの「純真な心」の信仰の姿勢です。

私達も、自分の肉から離れ、この世に対して妥協せず、純真な心を持って、信仰の残りの生涯を全うしよう

ではありませんか。


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