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2024年12月1日

『この世に対して迎合する考え方ではなく、
全能主から受け入れられる考え方とは

使徒の働き 26:19~23


(起) 使徒行伝26章20節「考えを入れ替えて全能主に立ち返り、悔いて心を入れ替えた者に相応(ふさわ)しい実を

結ぶようにと宣べ伝えて来た」
という御言から、「この世に対して迎合(げいごう)する考え方ではなく、全能主から

受け入れられる考え方」を学び、大胆に主を証して行く事を学んで行きたいと思います。


(承)さて、パウロはアグリッパ王に弁明したとき「私は、まずダマスコにいる人々に、それからエル

サレムにいる人々に、更にユダヤ全土、異邦人の地に至るまで、考えを入れ替えて全能主に立ち返り、

悔いて心を入れ替えた者にふさわしい実を結ぶようにと、宣べ伝えて来たのです」
と語っています。

しかし、パウロがこのように大胆に宣教をして来たのなら、何故、エルサレムで弁明する機会があった時に

「律法によっては、人は救われない」
と堂々と語らなかったのでしょうか。先週も学んだように、彼は

三回目の伝道旅行を終えて、エルサレム教会に戻って来た時、異邦人の間でなされた事を証しすると、

エルサレム教会の人々は主を()め称え、喜びを表しました。ところが、監督であったヤコブから「ここ

には律法に対して熱心な人達が大勢いるから、あなたも誓願のためにお金を出して、律法を守って正しく

生活しているという事
を皆に示しなさい」
と勧められ、パウロはそれに同意したのです。しかし、パウロは、

エルサレムに戻る前に「エルサレムに行けば鎖と患難が待ち受けている」という事を予め知らされていま

した。それでも、尚彼は「自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた全能主の恵みの福音を

証しする任務を、喜びをもって果たすことができるなら、この命は少しも惜しいとは思いません」
と勇敢に

語って、エルサレムに戻ったのです(20:22~24)。それなのに、ユダヤ人から反感を買わない

ようにという、ヤコブの勧めに従って「律法に熱心な者である振り」をして体裁を繕ったのです。しかし、

このような事は(まった)く必要がなかった(はず)です。むしろ、たとえエルサレムの人々から反発を受ける

事があったとしても、「モーセの律法では義とされる事のできなかった全ての事について、信じる者は

誰でも、このイエスによって義とされるのです」(13:39)
と、ユダヤ人にはっきり語るべきでした。

何故なら、パウロの務めは、「律法によっては誰一人義とされず、ただキリストを信じる信仰によって

救われるのです」
という福音を語ることであり、それが彼の使命であったからです。ですから、ユダヤ人も

異邦人も「考えを入れ替えて全能主に立ち返り、悔いて心を入れ替えた者にふさわしい実を結ぶように」

というのが、彼のメッセージだったのです。ですから、この世に対して迎合(げいごう)する生き方を示せば、

異邦人に語った福音がすべて否定されることになります。彼は、(ひとえ)に全能主に対して通用する生き方を

選んで行くべきであった(はず)です。


(転)そこで、私達もこの地上で生活している者として、どうしてもこの世で通用する物の見方、考え方に

合わせてしまうところがあります。もし、この世で自分だけが周りの人達と違う考え方を主張すれば、

周囲から()け者にされ、非難されて「ひとりぼっち」にされてしまうと思って、人に合わせてしまう

傾向があります。確かに、この世では、どうでもいい事柄に関しては、人に合わせても差し支えありません

しかし、イザ信仰のことに関しては、世に合わせることは出来ません。ですから、キリストに在って人から

非難されることがあったとしても、妥協してはいけません。むしろ、使徒たちのように、「イエスの御名の

ために、辱められるに値する者とされたことを喜びながら」(使徒5:41)
とあるように、「人よりも、

全能主の権威に従うべきです」(使徒5:29)
という振る舞いをすべきです。私たちは、生まれながらに、

自分を守る思いが染みついています。ですから、つい妥協してしまうのです。しかし、一度妥協すると、

私たちの信仰は、なし崩しになり、純真な信仰を失って福音が(ゆが)んでしまいます。
そして、全能主からの

信頼を失ってしまうのです
。このことは軽く考えるべきではありません。生まれながらの罪人にとって、

全能主から見捨てられたら終わりです。
イエス様が「体を殺しても、魂を殺すことの出来ない者たちを、

恐れてはいけません。むしろ、体も魂もゲヘナで滅ぼす力のある方を恐れなさい」
と言われたように、

私たちが恐れるべき御方は人ではなく、全能主です。こういう訳で、「私達は人に通用する生き方をする

のではなく、毅然(きぜん)とした信仰に立って、全能主に対して通用する生き方を、自分の意志で選んで行く

べきなのです。」
ですから、私達は世で生きていても、信仰においては世的な物の考えから離れて、全能主に

あって考えなければなりません。私達は魔物を抱えた罪人であって、世で幾ら体裁(ていさい)を整えたとしても、

私達が罪人であるという事実は変わりません。そんな罪人が、幾ら世に合わせても、世が私たちを救って

くれる訳ではないのです。ところが、そういう罪人に対して、アオリストの救いを下さったイエス様が

おられるのです。ならば、もうこの世の事は、全能主とイエス様にお任せし、いつも全能主に対して自分は

どうあるべきかと、考えれば良いのです。
これから患難時代に入ると、悪魔はいくらでも私達をつまずかせ、

失敗することが起こって来ます。しかし、その時には、純真な信じる信仰さえあれば、キリストの救いを

失うことはありません。
イエス・キリストの救いはアオリストですから、いつ死んでもパラダイスです。

ならば、私達は死を恐れる必要はありません。感情に依らず、この理に適った真理を信じることが、私たちの

信仰です。
「考えを入れ替えて全能主に立ち返る」とは、そういう事です。


(結)私達はどこまで行っても罪人です。パウロでさえも失敗したように、私達の心も世的な考え方や

世的な情によって、妥協してしまうかもしれません。しかし、それでも私達は考えを入れ替えて全能主に

立ち返り、悔いた心を持った者にふさわしい行動を取って、信仰に立つのです。どうか、常に考えを

入れ替えて全能主の側に立ち返り、この世に対して通用する考え方ではなく、全能主に対して通用する

考え方で、残りの生涯を全うしようではありませんか。


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