2024年11月24日
『この世に対して通用する生き方ではなく、 全能主とイエス様に対して通用する生き方をする』
使徒の働き 21:17~25
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(起) 使徒行伝21章17~25節の記事から、「この世に対して通用する生き方ではなく、全能主と
イエス様に対して通用する生き方をして行くこと」を学びたいと思います。
(承)さて、パウロはエルサレム教会に行き、伝道旅行を通して全能主が異邦人の間になさった事を
詳しく報告しました。すると、その話を聞いた人々は喜んで主を誉め称えたのですが、その後に
すぐに、エルサレム教会の監督であったヤコブは、「兄弟よ。ご承知のように、ユダヤ人の中で
イエスを信じた者達の数はおびただしく、しかも彼らは、皆律法に熱心な人達です…」と話し始めたの
です。これは、「この世に対して通用する生き方をしなさい」と言おうとしているのです。はっきり
言って、律法に熱心な者達がそこにいたからといって、そんな事は関係ありません。なぜなら、
パウロは、「モーセの律法では義とされることのできなかった全てのことについて、信じる者は誰でも、
このイエスによって義とされるのです」と使徒13章39節で、はっきりと語っているからです。また、
パウロは「イエス様は律法を終らせられた」(ロマ書10:4)とも語っていたのですから、パウロが
伝えた福音は「律法を守れば救われる」という「この世で通用する生き方ではありません。」ただ、
「イエス・キリストの罪の贖いによって救われる」という「全能主とイエス様に対して通用する生き方を
する」ことこそが、パウロの語ってきた福音でした。そこに律法の行いは必要なかったのです。
そういう新しい時代が来たという事を、パウロは直接イエス様と出会って知ったのですから、
パウロは、そこに律法に熱心なユダヤ人が居ようが、居まいが、自分の語る福音には、影響されない
筈でした。また、パウロの本来の働きは、ユダヤ人の今までの習慣的な物の見方、考え方を全部
否定して、「本当の救いはここにあります」という事を証しして行くのが、彼の召しであった筈
です。ところが、今までずっと、自分の努力次第、行い次第という中で生きて来たユダヤ人達に
とっては、福音を聞いたとしても、「正しい行いをしていくべきだ」という考えが、どうしても
身に染み付いていたのです。(使徒時代というのは、旧約から新約に変わって行く過渡期の
時代でした)ですから、エルサレムにいた使徒達でさえ、「律法によっては、救われない」という
真理に堅く立つ事が出来なかったようです。このように、エルサレム教会の監督であったヤコブは
「エルサレムにいる信者達は、皆律法に熱心だから、彼らをつまずかせないために、あなた自身も、
律法を守って正しく生活しているという姿勢を表してください」という提案をしたのです。
(転)しかしながら、パウロがその提案に同意すべきではありませんでした。なぜなら、「律法に
従うべきだ」という姿勢を表すと、「律法によらず、ただイエス・キリストによって救われる」
という福音がぼやけてしまいます。即ち、「イエス・キリストを信じて救われても、律法の行いは必要」
という事になり、福音というものが歪んでしまうからです。先程も申し上げたように、本物の福音
というのは、「イエス様の身代わりの贖いの代価によって、罪人が救われる」というものでした。という
ことは、たとえイエス様を信じたとしても、罪人である事に変わりはなく、たとえ律法に熱心であろうと
努力したとしても、それで罪人であるという事実が消える訳ではありません。では、そんな私達にできる
事は何でしょうか?それは、律法を正しく守って行くことではなく、「イエス様の贖いを純粋に
信じて、心をイエス様に向けて行く事」だけです。即ち「この世に対して通用する生き方ではなく、
全能主とイエス様に対して通用する生き方をして行く」ということです。全能主とイエス様は、私達が
正しい行いをする事ができない罪人である事を知っておられた上で、救いを与えて下さいました。ならば、
そのお方に対して、「こんな罪人を救って下さり、ありがとうございます」と、感謝の心を向けて生きて
行くべきです。即ち、全能主に対して「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、ヤハウェなる全能主
とイエス様を愛し、信頼して行く事」が、信じた者の生き方なのです。という事は、全能主の前に通用
するのは心であって、外側の行いや体裁ではありません。しかし、だからと言って、「何をやっても
いい、どんな悪人になってもいい」という訳ではありません。パウロの手紙の終わりには、「こうしな
さい、ああしなさい」という勧めが書いてあります。それは、ある程度道徳的な事も書いておかないと、
人間は、何をやり出すか分からないからです。それは、どこまでいっても、私達は魔物を抱えた罪人
であり、肉もありますので、完全ではありません。ですから、「最後まで模範的なクリスチャン
として体裁を繕って行け」と言われても、それは無理です。それ故に、私達には「ほど
ほど」にしかできません。でも、キリストの救いは「アオリスト」なのですから、現実の自分は
罪人で、情けない者であっても、救いがあることを知って、この世に対する生き方ではなく、「全能
主とイエス様に対して生きよう」と一生懸命心を遣い、ひたすら「心を尽くし、精神を尽くし、
思いを尽くして、ヤハウェなる全能主とイエス様を愛し」、どんな事でもやらせて下さいと、全能主に
目を向けて、生きようとしていくことではないでしょうか。
(結)しかしながら、私たちは、この地上で生活していますので、どうしても地上で通用する
生き方を求めてしまいます。しかし、クリスチャンは、もう「人に対して生きているのではなく、また、
この世に迎合して生きている者でもなく、全能主とイエス様に対して生きている者です。ですから、
「この世は私たちに対して、十字架に付けられ、私たちもこの世に対して、十字架に付けられて
しまったからです」(ガラテヤ書6:14)とあるように、私たちは、世に対して通用する生き方を
考えるのではなく、ただ、全能主とイエス様に対して通用する生き方を心がけ、最後まで献身的に、
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、ヤハウェなる全能主、イエス様を愛せよ」という
心を現して行くのです。これが患難時代の前に備えていくクリスチャンの生き方です。どうか、
残りの生涯、この心で歩んで行こうではありませんか。
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