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2024年12月15日

疑う心を砕き、聖書の理屈に基づいて、
ことごとく信じる道を通して行く事』

ヤコブの手紙 1:6~8


(起) ヤコブ1章6節「何一つ疑わないで、主を信じ仰ぐ心をもって求め続けなさい」という御言葉から、

疑う心を砕き、聖書の理屈に基づいて、ことごとく信じる道を通して行く事」を学んで行きたいと

思います。

(承)さて、私達の心の中から()き出てくる「疑い」というものは、全能主に逆らう心であり

不信仰の(もと)です
これは、「人間の原罪」から出て来る罪です。何故なら、「信仰に()らないことは

罪だからです」(ロマ14:23)。どういう事かと申しますと、アダムとエバが創造された時、全能主

から「善悪を知る木の実を()って食べれば、必ず死ぬ」と言われていました。ところが、エデンの園に

やって来た悪魔から「この実を食べれば全能主のようになれるぞ」(そそのか)され、アダムとエバは「必ず

死ぬ」と言われた言葉を疑って、その実を()り「全能主のようになりたい」、「何者かの如くになりたい」

という思いにかられて、禁じられていた知恵の実を食べてしまいました。その反抗は、「全能主を疑って

あえて信じようとしない原罪となったのです。すなわち、「信仰に()らないことは罪」(ロマ14:23)

を犯したのです。その結果、アダムの中には魔物の性質が入り込み、「疑い逆らう心を持ってしまい

ました。これが、まんまと悪魔の策略に引っ掛かった人間の悲劇です。それ以来、アダムの子孫である

全人類も皆、その悪の遺伝子を受け継ぎ、その悪が人の内に宿ってしまったのです。本来なら、アダムは

全能主に造られた被造物ですから、全能主に従い、全能主に仕えて行く立場にありました。
ところが、

その立場から離れてしまったため、アダムの子孫である「全人類」が、悪の遺伝子を受け継ぐ者となり、

人間は皆、オギャーと生まれた時から反抗心を持ち、()(まま)な性質が私たちの内に(ひそ)(かく)れる

ようになったのです。ですから、人は皆どうにもならない魔物の声に悩まされ、「善をしたくても、したくない

悪を行ってしまう者」になってしまったのです。ですから、人間が全能主に逆らって得た、「善悪を知る知恵と

知識」は、すべてが(ゆが)められており、悪魔の(だま)しの世界に入ってしまったのです。なぜなら、

悪魔の支配する(だま)しの世界では、絶対と言えるものはなく、真実もありません。だから、人間の願い

通りにはならず、「やること、為すこと」の全てが欠陥だらけになり、空しい結果になってしまうのです。

実際問題、この世は人間の手に負えない多くの問題が山積みにされており、人間は解決のないまま(あえ)いで

います。それは人間が原罪を抱え込んでいるためです。ですから、考えることが自己中心な発想となり、

人間世界に争いが絶えないのです。また、日々犯してしまう個々の罪を制せられないのです。そんな中で、

もう罪を犯さないようにしようと思っても、自分で自分の罪を(とど)める事ができないでいます。それは、

個人々人の中に潜む魔物を制することが出来ないからです。


(転)しかし、このどうにもならない原罪の呪いから、解放して下さる御方がおられます。その御方は

全能主の御子イエス・キリストです。私たちの原罪は、全能主を疑い逆らう心です。それがまた、

日々犯す罪過(ざいか)となっているのです
しかし、この原罪や、原罪の故に犯してしまう数々の罪や

(あやま)
ちも、赦して頂ける救いがあるのです。その救いは、すべての過去や現在の罪、また、この(のち)

犯してしまうだろう罪さえも解決して下さる、イエス・キリストのアオリストの救いです。それは、イエスが

マリヤの肉を荷なって私達と同じような罪深い肉(ロマ8:3)を以ってこの地上に来て下さったから

です。そのマリヤの肉は、私たちが生まれながらに持っている罪深い肉と同じです。しかし、キリストは、

その罪深い肉を担われましたが、イエス様の魂と霊は聖霊によって生まれた(きよ)いものです。ですから、

一切罪を犯されませんでした(ヘブル4:15)
。このように、キリストは私達の原罪を含む、罪深い肉の

全てを
荷なって、人間の罪の贖いのために、償いの代価となられたのです。ですから、その代価によって

全能主は、私たちの原罪と一切の(とが)罪を赦して下さり、ご自身の子として養子縁組(エペソ1:5)を

して下さるのです。
こんな救いは、地球上のどこにもありません。このキリストのアオリストの救いは

完全ですから、私たちの罪の代価として信じ、認める者には、この世の命を終えた後で、天の御国の命に

預かるのです。なぜなら、私達の一切の罪の負債を十字架に釘付けにして下さったからです。そのお蔭で、

私達はイエス様が荷なって下さった原罪から解放され、信じてからの罪も、第Ⅰヨハネ1章9節に「その

罪を悔いて告白するなら、全能主はそれらの罪の一つ一つの不義からきよめて下さる」
とあるように、

このアオリストの救いをきちんと理屈で理解し、疑わず、信じ認め続けて行くなら、全能主は真実で

正しい方ですから、全ての罪から清めて下さるのです。
ですから、私達は死後の世界のことで、何も

心配することはないのです。何故なら、キリストの完全な贖いがあるからです(ヘブル10:14)。

それを、何一つ疑う必要はありません。どうか、このアオリストの究極の救いに預かってください。

この救いを信じるか、信じないかはあなた次第です。ただ、歴史上、キリストの十字架による救いは疑う

余地のない事実ですから、疑う心を自分の中から追い出して信じるなら、その報いは、永遠の命にいたるの

です。

(結)このようにして、「疑う心を砕き、聖書の理屈に基づいて信じる者は、原罪の呪いから解放されるの

です。」
私達は、現在もなお罪を犯し、失敗をする罪人です。また、これからも過ちに陥るかも知れません。

しかし、そういう自分を見て不安に陥ったり、過去の失敗を振り返って、やっぱり自分は駄目だと疑うのは、

主の御心ではありません。
何故なら、主が来られたのは、「義人を招くためではなく、罪人を招いて救う

ため」に来られたからです。しかも、キリストの救いは究極のアオリストの救いですから、希望があり

ます。しかし、疑いは=悪魔の(だま)しの世界です。悪魔は、(すき)あらば、私達の所にやって来て、

疑いを持たせます。この「疑い」の中からは、(なん)の良きものも出てきません。ですから、疑う心を砕き、

聖書の理屈に基づいて、ことごとく信じる道を通して行きましょう。
そうするなら、どんなに悪魔の試みが

あっても敗北することはありません。後は、何一つ疑わないで、主を信じ仰ぐ心をもって、従い続けて

行くのです。


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