2024年12月22日
『困難の中にありながらも、最後まで信じ通し、
死に至るまで忠実である信仰』
第Ⅰテサロニケ人への手紙 4:13~18
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(起) テサロニケの手紙とマタイ24章とルカの福音書から、「困難の中にありながらも、最後まで
信じ通し、死に至るまで忠実である信仰」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、このテサロニケの手紙には、主の再臨について記されていますが、第Ⅰの手紙では、死んだ
人たちの事を、あえて「眠った人たち」と表現されています。眠ったという表現は、「目覚めもある」
という「復活の希望」について記しているものです。ですから、信仰によって殉教し、眠った人々とは、
「死に至るまで忠実であれ」と言われた殉教の道を通した人々です。そして、その人々こそが、黙示録の
中に記されている「勝利を得る者は、これらのものを相続する」(黙21:7)と言われた人々のこと
でした。ですから、黙示録の七つの教会に宛てられた手紙の目的はここにあったのです。即ち、手紙の
文面には、全ての教会に「勝利を得る者」となるように、という勧めが書かれています。ですから、
全能主の御心は、終わりの時代に全てのクリスチャンが、熱くもなく、冷たくもない信仰ではなく、
小羊の証のために、命を懸けていく信仰を求められているのです。黙示録には、小羊の証のために殺された
人々の霊魂に対して、「ここに、聖徒の忍耐がある」(黙14:12)と、記されています。それなのに、
「現在の生ぬるいクリスチャンが、患難時代の前に天に引き挙げられる」と考えるのは、虫のいい話です。
新約聖書の中には、全てのクリスチャンが患難時代を通っていくことが明白に書かれています。その事が、
一番明確に記されているのは、福音書にあるマタイ24章15節以降です。キリストの再臨と携挙は、
まず預言者ダニエルによって語られた「荒らす憎むべき者」(666の獣)が聖なる場所に立った(15節)
後に起こる事柄であると明確に書かれています。即ち、666の出現の前には再臨はありません。666が
出現すると、偽キリスト、偽預言者によって、数々の大きなしるしや不思議が行われ、選ばれた人々さえも
惑わそうとします(24節)。そして、666は「聖徒に戦いを挑んで、これに勝つことを許され」(黙13:7)、
多くの聖徒が殉教します。これらの大患難(21節)の後、天変地異が起こり(29節)、それから、ようやく
「人の子のしるしが天に現れます」・・・即ち、この時になって、「人の子が、力と輝かしい栄光を持って、
天の雲に乗ってやって来るのを人々は見ます」(30節)。そして、「人の子は大きなラッパの音と共に、
御使いたちを遣わし、天の果てから天の果てに至るまで、四方から選びの民を呼び集めます」(31節)。
このラッパの響きは、患難の最後のときに起こり、マタイ24章31節と、Ⅰコリント15章51節と、
第Ⅰテサ4章16節に、書かれているのです。即ち、クリスチャンの携挙は、患難時代の終わり頃に
「終わりのラッパの響き」と共に、主が再臨された後で、生き残っている選びの民を集めるためにあるの
です。この事は、「空中携挙」と言われ、「この携挙が患難時代の前に起こる」という根拠は、聖書の中の
どこにもありません。むしろ、それはただ単に「クリスチャンは患難時代を通らない」と思いたいだけの、
御利益的な発想でしかないのです。そんな、まやかしに騙されていると、患難時代の初めに起こる、背教に
陥ることになります。そのことは、第Ⅱテサ2章3節に記されています。滅びの子(666の獣)が現れる
前に、まず背教が起こると書かれてあるからです。ですから、全てのクリスチャンが、目を覚まし、熱い
信仰に立っていないと駄目なのです。こんなに明確に携挙のことが書かれているのに、どうして患難時代の
前に、皆携挙されると思っているのでしょうか。患難前携挙説は真っ赤な嘘です。患難時代の終わりに
起こるというのが、イエス様が語られた携挙の流れです。ですから、患難時代の前にクリスチャンが天に
挙げられる事は決してあり得ません。クリスチャンも必ず患難時代を通ります。だからこそ、黙示録2章
10節には、「死に至るまで忠実であれ」と書かれてあるのです。即ち、黙示録にある七つの教会の手紙の
目的は、クリスチャンたちが最後まで信じて「勝利を得る者」となることであり、たとえ命を落とす事に
なっても、「勝利を得る者」として復活し、天の御国を相続する者となるように、という手紙です。全能主が
与える幸いは、この地上の御利益的な救いではありません。私たちの国籍は天にあります。それは、世の
終わりの後に与えられる永遠の御国の命なのです。ですから、「信じていれば主の助けがある。守って
下さる」という、地上的な悪魔の惑わしに騙されてはいけません。困難の中にありながらも、主から離れず、
信じる心を最後まで通す事が、私達の信仰です。
(転)では、その信仰の姿勢を具体的に表した人は誰でしょうか。それは、マリヤさんです。マリヤさんは
御使いからお告げを受けた時、「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」(ルカ
1:38)と言って、御使いの言葉を受け入れました。そして、親族であるエリサベツの家に行って、
彼女と共に喜び、主を誉め称えました。ところが、いざ身重になり、お腹が大きくなって行った時、
人々からは、白い目で見られ、非難を受けたでしょう。そんな誤解が起こって来た時、以前、御使いの
告知を聞いた時のように、新鮮な気持ちで受胎を喜べたでしょうか?聖書には細かい事は書いてありま
せんが、「なぜ、私がこんな目に遭わなくちゃならないの」と文句を言いたくなる気持ちも出て来たこと
でしょう。しかし、信仰というものは、地上にあってはそういうものだと理解して下さい。つまり、全能
主に従う道は、良い事ばかり起こって来る訳ではなく、恥を被るような嫌な事も起こって来る
という事です。しかし、たとえ、その様なことが起こっても、「自分の願う通りにならなくても、主に従い
ます」と信じ続ける信仰の心が必要なのです。マリヤさんは、イエス様を身籠もっている間、苦しい思いを
しながらも、最後まで信じ通して、ちゃんとイエス様を産んだのです。その場所は馬小屋で、決して幸いな
場所ではありませんでした。それでも、信じて産み通したところに勝利があるのです。信仰とは、そういう
ものです。それは人の前に勝利があるというのではなく、全能主が義として下さるから勝利なのです。
(結)これから患難時代に入ったら、私達もマリヤさんと同じような経験をするでしょう。即ち、自分達に
とって、感情が害されるような事がいっぱい起こってきます。私達は、苦しみを一切通らない訳ではなく、
そこを通りながらも、それでも最後の最後まで信じ通して行くかを、全能主は見ておられます。それが、
御利益を追い求めていない私達の本物の信仰です。どうか、「信じたから守られて行く筈だ」という
地上的な御利益信仰は捨てましょう。そんなものは悪魔の騙しの信仰です。イエス様だけを十字架につけて
苦しい目に遭わせておいて、自分は苦しみを受けようとしないなんて、あまりにも身勝手です。むしろ、
私達は罪人ですから、辱めを受け、辛い目に遭って当然です。その中にあって、キリストの
アオリストの贖いを信じ通すのです。そして、その信仰の道を通し切った者が「勝利を得る者」として、
全能主の御国を相続するのです。そのことを、主は喜んで下さり、イエス様の再臨の時に甦らせ、天に
迎え入れて下さいます。どうか、最後の最後まで信じ通し、「死に至るまで忠実な信仰」でありましょう。
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