2024年11月10日
『与えられた能力を精一杯、主のために用いて行く事』
使徒の働き 11:1~3、13~18、39
|
(起) 使徒行伝13章39節「モーセの律法では義とされることのできなかったすべての事に
ついて、信じる者は誰でも、このイエスによって義とされる」という御言葉から、「キリストの
十字架を見上げ、その血によって清められた事を感謝し、与えられた能力を精一杯、主のために
用いて行く事」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、使徒達は「イエスはキリスト(救い主)です」と大胆に証しして、「このイエス・
キリストの十字架を仰ぐ者は、その流された血によって清められ、救われる」(ヘブル9:13
~14)という救いの真理をはっきりと語り出しました。すると、その福音を聞いて信じる人が
起こされ、一日に三千人から五千人の人々がバプテスマを受けて、弟子に加えられて行ったのです。
これは驚くべき聖霊の働きです。何故なら、「十字架に付けろ」とイエス様に反対して叫んでいた
ユダヤ人が、考えを180度変えて信じたのですから、実に驚くべき出来事だったのです。しかも、
10章では異邦人であるコルネリオ達にも救いが及び、更に聖霊の賜物も注がれました。ところが、
こんなに素晴らしい事が次々に起こったにもかかわらず、既に信じていた割礼派のユダヤ人が、
コルネリオの所から帰って来たペテロ達に「あなたは、無割礼の人達の所に行って、彼らと一緒に食事を
したのですね」(11:1~3)と非難しました。また、パウロ達が伝道旅行から帰って来て
「全能主は、異邦人にも主を信じる門を開いて下さった」と喜んで報告すると、割礼派のユダヤ人が
今度はアンテオケの教会に下って来て、「あなた方も、モーセの慣例に従って割礼を受けなければ、
救われません」と言い出したのです。当時のユダヤ人にとって、割礼は全能主を信じる事の証しでした
から、「異邦人も全能主を信じたなら、割礼を受けるべきだ」と主張した事は、一理あります。
しかし、それでは、律法による救いとなり、キリストの十字架の贖いが否定されることになります。
すなわち、「律法と恵みのごちゃ混ぜの信仰」になります。ですから、パウロ達は「先祖も私たち自身も
負い切れなかったくびきを、異邦人の首に掛けて、全能主を試みようとするのですか」と割礼派のユダヤ
人に訴えかけ、「モーセの律法では義とされることの出来なかった全てのことについて、信じる者は
誰でも、このイエスによって義とされるのです」と言って事態を収拾しました。このように、当時の
ユダヤ人は、「キリストの恵みによって救われる」ということを、信じてはいたのですが、どうしても
以前の習慣から抜け出せず、「律法を守って、正しく生きて行くべきだ」と言う考えから、抜け出せ
ないところがありました。この事は、新しい契約によってキリストの福音が明らかになる過度期の
時代に起こっていた、深刻な問題でした。
(転)さて、こんな論争は今尚、現代のクリスチャンの中にも潜んでいる深刻な問題です。
なぜなら、私たちが異邦人であっても、律法的な意識は誰の心の中にもあるからです。私達は子供の
頃から「こうしなさい、ああしなさい」と教えられ、その戒めが守れるかどうかは別問題として、
ただ、「戒めを正しく守って行く事が、良い子だ」という意識の中で育ってきました。その為、その
教えの中で「自分はこれをやりました」と、手柄を立てる事によって認められようとする意識を、
皆持っているのです。確かに、戒めは正しいものですが、この正しいものが私たちを苦しめているの
です。なぜなら、私たちは、自分のしたいことは行わず、却って自分が憎むことをしてしまう
者だからです。それは、私たちがアダムの罪の子孫として、生まれながらに持った原罪の所為
です。確かに良心はあります。しかし、その良心は、戒めを強制されると反発し、生まれながらの
肉の性質の中には魔物が潜んでいるので、反抗心が顔を出すのです。即ち、キリストの恵みで
救われたはずのクリスチャンが、聖書を読んでいくと「信じた者はこうあるべきです」という戒めに
出会すと、戒めを強制されていると思い、「恵みで信じたのに、やはり行いを求められるのか、
それはできない」と、落ち込むのです。「善をしようとする意志はあっても、それをする力が無いから
です。」すると、そこに悪魔が働いて、「それでもクリスチャンか」と畳み掛けられ、「私たちは、
何という惨めな者でしょうか」と落胆し、信仰の成長が止まるのです。これは、「先祖も私たち自身も
負い切れなかったくびきを、首に掛けられた」クルシミチャンのパターンです。戒めは正しいもの
です。しかし、生まれながらに魔物を抱えた私たちにとって、聖書の戒めは「負いきれないくびき」
なのです。私たちは「良い人間になって、自分も手柄をたてて、親兄弟に認められたい」と思うで
しょう。そして、「偉い人のようになって尊敬されたい。自分を認めてもらいたい」という
気持ちが大なり小なりあるのです。ところが、もし本当にそれができるなら、イエス・キリストが
十字架にかかって血を流す必要はありませんでした全能主は、ただ全て人間の努力に任せれば
よかったはずです。しかし、人間にはそんな能力はありませんでした。ならば、自分の力で手柄を
立てる事によって認められようとする律法の心は砕いて、考えを変えなければなりません。
なぜなら、律法というくびきは、私達にとって負いきれなかったものだからです(15:10)。
(結)そこで、大事な真理を最後にお伝えします。「信じる者は誰でも、このイエスによって義と
される」という道が開かれたのです。即ち、キリストの血は、罪人を贖う血として全能主が承認
されたため、罪人が救われる絶対的な効力があるのです。ならば、キリストによって救われた者が
求められている行いは、自発的な心から始まり、自分の力からは出てこない事を完全に認めた上で始め
出すものです。即ち、大事な真理は、良い行いは求められてするものではなく、「キリストの十字架を
見上げて、その血によって罪が赦されたことを感謝した者が、自然な応答として、全面的にキリストに
頼って一生懸命していく行い」なのです。すなわち、クリスチャンの行いは、自分が認められる
ために、手柄を得ようとして努力して行くものではありません。同じ行いでも、自分の努力の中から
出そうとするのではなく、「主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」という前提の上で、「与えられた
能力を精一杯、主のために用いて行く努力」という、新しい生き方に転じたものなのです。この事が
分かると、「どこまでも主を見上げて一生懸命やろう」という気持ちが出てきます。これは律法では
なく、自分自身の心の中から自然に湧き起こってくるものです。その感謝の気持ちから出てくる
行いや努力は、全能主も喜んで受け入れて下さいます。ですから、行いと努力は「主に信頼せよ、主が
成し遂げて下さる」ことを信じて、「主を信頼した努力」の中でしていくものです。全能主は人間を
バラエティー豊かに造られましたから、1タラントの者もいれば、5タラントの者もいます。
しかし、どんな人間も、キリストの十字架を見上げ、その血によって清められた事を感謝し、
与えられた能力を精一杯主のために用いて行くなら、「行いの結果」と言うより、救いの感謝の
心から一生懸命して行った「心」を、全能主は喜んで下さいます。どうか、この真理にしっかりと
立って、どこまでも主のために一生懸命やらせて頂こうではありませんか。
|
|