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2024年11月3日

『聖書からの真理の二面性の理解

使徒の働き 10:9~16


(起) 使徒行伝10章のペテロとコルネリオの記事から、「二面性を理解して行く為の遜りの心と、

霊を見分ける賜物によって正しい判断をして行く事」
を学んで行きたいと思います。


(承)さて、ペテロがうっとりと夢心地になっている時、とても不思議な幻を見ました。それは「天から

大きな敷布のような入れ物が降りて来て、その中にはあらゆる種類の四つ足の動物や、野の獣、()う物、

空の鳥などが入っており、それを『ほふって食べなさい』という幻」
でした。恐らく、そこには汚れた

動物や()う物など、食べてはならない生き物が入っていたと思われます。ところが、ユダヤ人にとって

旧約聖書の戒めは絶対ですから、「汚れた物を食べたり、触れたりしてはならない」という考えがありま

した。そのために、ペテロは「主よ。それはできません。私は今まで、汚れた物や清くない物を、何一つ

食べたことがありません」
と答えました。すると、「全能主が清めた物を、汚れているなどと言っては

ならない」
という声があったのです。そこで、ペテロは「この幻はいったい何の事だろうか」と思い巡らし、

「これはおかしいな」と思いながらも、完全に否定する事はできなかったのです。なぜなら、「汚れた動物は

食べてはならない」という律法も正しい、また、「全能主が清めた物を汚れていると言ってはならない」

という全能主の言葉も尊重しなければならないという両面性があったからです。ですから、ペテロは一面

だけで判断せず、「これは慎重に考えて行くべきだ」と思い巡らしていると、コルネリオから遣わされた

(しもべ)
たちが、ペテロの家を尋ね当てて声をかけました。すると、御霊が反応し、「何も疑わないで、

彼らと一緒に出掛けて行きなさい」
と言われたのです。翌日、ペテロは彼らと一緒に出掛けて行きました。

そして、コルネリオから話を聞くと、「四日前に突然、輝いた衣を着た人が現れて、ヨッパに人を送って、

ペテロと呼ばれるシモンを招きなさいと言われので、早速あなたの所へ人を送りました」と語ったのです。

すると、ペテロは、「これでハッキリ分かりました」と言い、「自分にも御使いの声があって、自分だけの

独りよがりな経験ではなかった」という事を確認したのです。そして、ペテロは「全能主は人をえこひいき

なさる御方ではなく、どんな国民でも、全能主を恐れかしこみ、義を行う人は、全能主に受け入れられる」


という事が分かり、コルネリオに「イエス・キリストはすべての人の主です」(使徒10:36)と伝えた

のです。そして、異邦人であるコルネリオとの交わりを通して、全能主は、「異邦人とイスラエル人の区別を

なくし、イエス・キリストによって異邦人も救う」という、新しい救いの道を開こうとしておられることが、

ペテロには見えてきたのです。


(転)では、ここから私達が学ぶべき事は何でしょうか。それは、物事を判断する時には、一面だけで

判断せず、よく吟味すべきだという事です。一面という事は、「真理は一つと決めつけて、原因・結果の

結論は一つだけだ」
と決め掛かっていくことです。しかし、真理には二面性があります。例えば、「光は

粒であり、また線でもある」という矛盾に満ちた現実が、この自然界の中にある真理です。また、「イエス様は

人であり、全能主の子でもある」という矛盾に満ちた二面性さえ真理です。他にも聖書の中には、「全能主の

選びの主権と、人間による自由意思による主権」は正反対のものですが、これも両方とも真理であるという

ことです。ですから、一面だけを見るのではなく、それと反対の見方もして行かなければなりません。

反対の見方をするという事は、「自分自身がこうだ」と思っているものを横に置いて、「対象となる相手の

側から見て考える」という事です
それは、遜りの心を持たなければできません。自分が正しいと思い切って

いる人は、「相手の側から見て考える」ということを、しようとしないのです。ですから、どこまでも自分が

理解出来る(わく)の中で、自分の考えが正しいと思って、誤った結論を出してしまうことがあるのです。

それは、自分の知り得た(せま)(わく)の中で決めてしまうからです。ですから、「自分の個人的な見解を

絶対基準」
とするのは間違っています。今日お読みした箇所もそうですが、新しい時代が始まる時には、

今までとは違う事が起こってくる可能性があります。ですから、不思議な事柄に対して、自分の見解と

自分の理解力だけに頼って判断するのではなく、
聖書を通してよく吟味して行くべきです。即ち、「木は

実によって知れり」とイエス様が言われた通り、全ての事柄は、実によって理解して行くのです。例えば、

「患難時代の前にクリスチャンが天に挙げられる」という考えに立つと、クリスチャンの多くは、「信じて

さえいれば、患難時代が来ても、携挙されるから大丈夫だ」と安心してしまいます。しかし、イエス様は

十人の娘の譬えから、主がいつ来ても良いように「目を覚ましていなさい」と言われているのです。

ですから、患難時代前携挙説は、クリスチャンを眠らせる悪い実を結ばせるものです。これからの世界は、

患難時代がドンドン近づいてくる時代に入って行きます。すると、驚くようなしるしと、不思議が悪魔に

よって行われ、クリスチャンは惑わされて行きます。その時に私達が心して行くポイントは二つです。

一つは、「そこに霊的な清さがあるかどうか」という事です。
悪魔から来るものには決して清さはありません。

もう一つは、「砕かれた悔いし心があるかどうか」という事です。
悪魔の中には砕かれた悔いし心はありま

せん。
この二点を見て下さい。初めから自分の感覚で決めつけないで、「全能主の御心に適った実が出て

来ているかどうか」
を注意して見て行く事が大切です。


(結)こういう訳で、これからは、一人一人が「霊を見分ける判断」をして行かなければなりません。

その時、たとえ常識を超えるような事が起こったとしても、自分の感情と自分の頭で決めつけてはいけま

せん。「これはおかしいな」と思ったときには、軽挙妄動(けいきょもうどう)を慎み、直ぐ判断せず、よく吟味して

「実によって判断する」のです。また、直ぐに否定するのも間違っています。それは人間の傲慢です。

私達は被造物ですから、全てが知れる訳ではありません。ですから、そこに二面性があるかも知れません

ので、よく注意して見て行く、遜りの心が必要です。
そして、是非、全能主から霊を見分ける賜物を頂いて

下さい。
そして、これからの患難時代に向かってよく学び、霊的判断する為の今の訓練は、大切な時です。

私達一人一人が信仰の奥義をよく学び、勧めを心に刻み込み、主の御心の中を歩んで行きましょう。


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