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2023年4月9日

自分の考えを引いて全能主の考え(聖書)に立ち、
新しい命に基づく、新しい考え方を始める

マルコの福音書 2:18~22


(起) マルコ2章22節の「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れるのです」という御言葉から、

「自分の考えを引いて全能主の考え(聖書)に立ち、新しい命に基づく、新しい考え方を始め出すこと」

を学びたいと思います。

(承)
さて、最近、私たちの教会では「自分の考えと聖書の内容をすり合わせて理解しようとすることは

間違って
いる」と学んで来ましたが、それは今日お読みした箇所からも学ぶことができます。古い

着物に継ぎ当てを
する時、新しい布切れで継ぎ当てをしてしまうと、新しい布が古い着物を引き

裂いてしまいます。また、新しい
ぶどう酒を古い皮袋に入れてしまうと、新しいぶどう酒は発酵する

力がありますから、古い皮袋を割いてしまいます。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなけ

ればなりません。それと同じように、私たちも、新しい
命をもらったなら、新しい命の考え方、

生き方をしなければならないということです。
即ち、聖書の考えに、自分の古い考えや感情を擦り

合わせて理解しょうと考え続けるのは、間違っているということです。なぜなら、聖書は正しい

ものです。しかし私たちの考えは、肉の感情が入って自分勝手に考え込むからです
。私たちは、

子供の頃から「自分の考えを持ちなさい。そして、いろんな勉強をして、自分で正しい判断ができる

ように
なりなさい」と教えられてきました。しかし、その学びは、どこまでも、聖書の考えを正しく

理解するための
学びではありません。それは、どこまでも、地上の事柄に関しての物の見方をして

行く為の勉強です。その学びの多くは、自分の肉の考えを発展させるもので、それは、アダム以来、

罪に堕ちた人間の物の見方、
考え方を土台にして、地上でどう生きて行くかの知恵を学んでいた

ものです。しかし、私たちにとって正しい
ものの見方は、聖書の中にあります。その聖書の教えは、

新しい真理です。その新しい真理を、古い皮袋に入れてはいけません。即ち、私たちはイエス様に

よって新しく生まれたのですから、聖書に基づく新しい考え方に立って理解していく必要があり

ます。
新しい聖書の教えを、古い自分の考えと、すり合わせて理解しようとすることは間違って

いるのです。


(転)しかし、だからといって、自分の考えを全く無くすことは出来ません。自分の考え、自分の思いは、

当たり
前のように、心の中から出てきます。それを出てこないようにすることは不可能です。しかし、

自分の考えや思いが出てきても、「これは魔物の入れ知恵だから止めておこう」と、横に置くことは

できます。その作業を
なるべくスムーズにして行く秘訣は何か、と云いますと、自分は、古い蛇に

そそのかされて罪に落ちたアダムの子孫であり、エバの罪を受け継いでいる、生まれながらの罪人で

ある事実を自覚することです。
自分が罪人で
あることを自覚できないと、自分の考えはいつも正しい

と思って口に出します
。しかも、それを人に押し付けようとしてしまうのです。だから、自分自身の

考えや感情は必ず出てくるものですが、それが出てきたとしても
すぐに口に出してしまうのではなく、

ちょっと考えてみるのです。聖書にも書いてあるように、言葉は自分の心の
中から出てきますから、

心の中で自分は罪人だと自覚しているなら、「今自分が考えたことや、思いは本当に
正しいのか

どうか?」を、一瞬考えるべきです。その時に、これは自分の肉の勝手な考えだと思ったら
その言葉を

発しないで、心の中に収めておくのです。その瞬間に、自分を抑えることができます。自分を抑えると


今度は相手の言うことを聞いてみよう、という気持ちになりますので、その人の論理に基づいて話を聞き

ますから
その人が言っている意味が見えてくるようになります。相手の考えを聞こうとしないで、

「私は正しい」と主張して
ばかりいては、話しの筋が見えてきません。自分の考えが、肉の中から

出てきたものなら、正しいと思っても、
間違っている場合がいくらでもあります。そこで、聖書は

正しいのですから
自分の考えは引いて、聖書を中心に
考えようと、思いを入れ替えるべきです。

(結)全能主は、本当は30年前の事件を通して、このことを教えたかったのです。即ち、「聖書に

書いてある通り、今の世でも悪霊は存在する」ということを理解させたかったのです。ですから、

そのことを理解した上で、慎重になって、自分の考えを横に置き、聖書は正しいのですから、聖書に

聞いて行こうとする心に切り替えて行くことです。
言い換えれば、全能主は「もう自分の考えに頼る

のではなく、聖書を信頼し、主を信頼しなさい
」ということを教えたかったのです。そして「罪人の

自分からは、何も出てこない。だから主に信頼して行くのだ、
主が成し遂げて下さるのだから」と

私たちの心が変わって行く事を願っておられました。なぜなら、これから
全能主は、ご自身の

集大成の働きを委ねようとされているからです。もし、そのことを悟っていたならば、その
時から、

主の働きは始まっていたことでしょう。ところが、私たちが30年間、自分を砕く事をして来なかった

為に
、未だに全能主の集大成の働きが始まって来ないのです。それは、いつまでも古い自分の

考え方に捕らわれ続け、自分の肉の考えを退けて来なかったからです。そのことに気付いたら、

「私が間違っていました」と砕きましょう。そして、自分の考えを引いて全能主の考え(聖書)に

立ち、そこから新しい考え方に切り替えて行きましょう。
それが、「新しいぶどう酒は、新しい

皮袋に入れる」という信仰の在り方を始めることです。どうか、「聖書の考えと、自分の肉の考えを

擦り合わせて理解しょうとする習慣を捨て、新しい命に基づく、新しい考え方」
を始め出そうでは

ありませんか。


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