2022年9月4日
『たとえ思い通りにならなくても、 主を信じ通す、綺麗事の信仰』
ヨハネの福音書 21:15~19
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((起) ヨハネ21章15節から、イエス様がペテロに、「あなたは、わたしをアガペーの愛で愛し
ますか」と、三度尋ねられたところから、クリスチャンは、「たとえそうでなくても」という信仰に
立ち、「いくら自分の思い通りにならなくとも、主を信じ通して行きます」と心を定め、「綺麗事の
信仰を通して行くこと」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、イエス様は復活された後、弟子たちの前に姿を現され、食事を共に取られました。
そして、食事の後で、ペテロに問われたのです。「ヨナの子シモンよ。あなたはこの人たち以上に、
わたしを愛しますか」と。その時イエス様が問われた愛とは、アガペーの愛(一方通行の愛)で
聞かれたので、当然ペテロも純粋な一方通行の愛をもってイエス様に答えるべきでした。ところが、
ペテロは「私があなたを愛(フィレオー)することは、あなたがご存知です」と返答し、イエス様に
預けるような卑怯な答え方をしたのです。しかも、一方通行のアガペーの愛ではなく、ギブ&テイクの
フィレオーの愛で答えたのです。それはどうしてか?と言いますと、ペテロは「たとえイエス様と共に
死ななければならなくても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」と言っていたにも拘わらず、
イエス様が捕えられた時には逃げ出してしまい、イエス様を三度も「知らない」と言ってしまったから
です。ですから、ペテロは、烏滸がましくて「アガペーの愛で愛します」と答えることはできなかった
のです。そこで、イエス様は三度目に聞かれた時には、あえてフィレオー(ギブ&テイクの愛)で問われ
たのです。それは、どうしてかと言いますと、イエス様は、ペテロが純粋な心で従ってくる気持ちを
表わすように願っておられたのですが、ペテロにはその心がないことを感じ取られて、レベルを下げ
られ、「わたしがあなたをフィレオーで愛して、あなたを助け、あなたの願いを聞くなら、わたしに聞き
従いますか?」というような問われ方をされたのです。ペテロは三度もイエス様から尋ねられたのです
から、途中でフィレオーからアガペーに変えれば良かったのですが、やはり三度目もフィレオー(ギブ&
テイク)で答えてしまいました。人間というのは、実に自分中心で損得でしか心を働かせることの
出来ない情けない者です。
(転)では、私たちはどう考えて行くべきでしょうか?私たちも、ペテロと同じような人間です。
自分の弱さを知っていますので、「次に失敗をしたら、また大きく傷付く」と思い、「私はあなたを
アガペーで愛します」と、はっきりと答える事が出来ないのです。また、イエス様が捕えられた時、
弟子たちは皆逃げて行きましたが、私たちも、もしその場にいたら、逃げ出していたに違いありま
せん。しかし、イエス様はどうだったでしょうか。イエス様は、その場に一人残されて、弟子が去っ
て行ったにも拘わらず、どこまでもアガペーの愛の心を通し、御父から遣わされた者の使命を
全うして、決して逃げ出すことはされませんでした。それは、イエス様の「たとえそうでなくても」
という御父への忠義の一心です。しかし、その時イエス様でさえ、もう御父からも見捨てられたと
思われ、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。しかし、そんな中でも、
イエス様は一方的な愛の精神を持って、罪人の身代わりとなり、ご自分の命と引き換えにして贖いを
成し遂げられたのです。これが、「たとえそうでなくても」という、本物のアガペーの愛です。この本物
の愛の故に、こんな私たちのような損得勘定の強い人間にさえも、イエス様のアガペーの愛が注がれて
おり、アオリストの救いの中に入れられているのです。これが、イエス様のアオリストの救いです。
即ち、現在、私たちがどんなに身勝手で自分中心な心を持っていたとしても、イエス様の贖いは一方
通行の愛ですから、それ故に、罪赦されるという救いがあるのです。誰でも、生まれながらの自分の醜い
姿を見れば、「自分なんかもうダメだ」という気持ちに陥って、自信を失います。それは、たとえどんなに
高い能力と強い意思を持っている人間であっても同じです。人は皆、落ち込むのです。また、失敗も
するし、必ず限界を感じるのです。この世の中の人間とは、そういう者です。ところが、聖書を
見ると、そういう弱い者にも、イエス様は「アオリストの救いを下さった」と書いてあります。
ですから、イエス様の一方的な愛による贖いだけが、私たちの救いであり、望みなのです。この救い
があれば、こんな弱い私たちでも、イエス様を信頼して生き続けて行けるのではないでしょうか。
(結) どうか、それが分かったなら、これからは私たちもアガペーの愛を持って信じて行きま
しょう。そのアガペーの愛の具体的な信仰の姿は、「たとえそうでなくても、イエス様を信じ続けて
行きます」という、綺麗事の信仰です。即ち、それは自分の思い通りにならなくても、信じ続けて
いくことです。「出来ることだけをする」という「損得勘定」の世界ではありません。また、「できる
できない」の世界でもありません。私たちは既に救いを受けたのですから、救いを頂いた以上は、
たとえこの身が迫害に晒されようが、患難が起って来ようが、信じる道を通すのです。これが
アガペーの愛であり、綺麗事の信仰です。どうか、「たとえそうでなくても、主を信じ通して行き
ます」と心を定め、綺麗事の信仰を通して行きましょう。この信じる信仰は、実にミュラーさんが
味わったダイナミックな信仰です。
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