2022年9月18日
『天に繋がる水一杯の心』
マタイの福音書 10:34~42
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(起)マタイ10章42節「冷たい水一杯でも飲ませるものは、よく言っておきますが、その人は、
決して自分の報いを失うことはありません。」という御言葉から、誰でも「わたしの主の兄弟で
ある、これらの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:40)という
水一杯の行為は、天に繋がって行く幸いであることを、学んで行きたいと思います。
(承)さて、ここでイエス様は「わたしよりも、父または母を愛する者は、わたしにふさわしい者
ではありません。わたしよりも、息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」と
言われました。これは、ある意味で非情で厳しい言葉です。一般的な感覚では、たとえ信じた者で
あっても、問われれば「自分の親を大事にしなければならない」という意識の方が先立ちます。また、
他の箇所では、イエス様の弟子になりたいと考えた者がイエス様の所に来て、「私はあなたがおいでに
なる所なら、どこへでもついて参ります。でも、まず、父を葬りに行かせて下さい」と言いました。
すると、イエス様は、「死人を葬ることは、死人に任せておきなさい」(マタイ8:22)と、
厳しいことを言われたのです。しかし、ここまでイエス様が言われたのは、それだけのことを、
この後になされるからです。それは、人間に永遠の命を与えることであり、「あなたたちの罪の
償いを、わたしが全部成し遂げる」という強い意識がイエス様の中にはあったからです。その救いは、
私たちにとって何物にも代え難いものです。たとえ地上で親を大事にし、子供を大事にするという
愛を示したとしても、自分自身の罪の赦しがないまま、命を失ったらどこに行くのでしょうか?それは
直感的に分かります。「人間には一度だけ死ぬことと、死んだ後、裁きを受けることが定まっている」
(ヘブル9:27)」とあるように、私たちは、死んだら終わりではありません。死んだ後に、人は皆
「自分の行ないに従って罪の報いを受ける」のです。ですから、肉体の命を閉じた後も、自分自身の霊
(命)と自分自身の魂(精神)は生き続けます。ということは、自分が死んだ後に、「私たちの霊
魂が地の底に落とされて、泣いて歯ぎしりする」か、或いは「キリストの救いに預かって、自分
自身の霊魂が天に上げられ、救われていたことの喜びを感謝する」か、そのどちらかがあるということ
です。そのことをイエス様は全部知っておられたが故に、ここまではっきりとしたことを言われたの
です。ですから、このことは、イエス様が「地上であなたたちが大事だと思っているものよりも、
はるかに大事にすべきものがここにある」ということを教えたかったのです。
(転)では、私たちにとって大事にすべきものとは何でしょうか?それは、「全ての人が救われて、
天に繋がって行く幸いが与えられて行く」ことです。なぜなら、イエス様の救いが、クリスチャン
だけの救いではなく、全世界の人々のためにあるからです。それは、どういうことかと言いますと、
この福音書に書いてあるマタイ25章40節では、たとえ未信者であっても「わたしの兄弟である、
これらの最も小さき者の一人にしたのは、わたしにしたのです」と言われ、イエス様に直接した行為
ではなくとも、「主の弟子に水一杯を与えた者は、イエス様にしたことです」と言われたからです。
即ち、それは「誰でもわたしの弟子であるという名の故に、これらの小さき者たちの一人に、冷たい
水一杯でも飲ませる者は、・・・決して自分の報いを失うことはありません」と言うことなのです。
つまり、その報いとは、マタイ25章34,46節にあるように、「永遠の命に入る、御国のこと」
です。この報いを受ける人々は、直接イエス様を信じた人だけではありません。たとえ未信者で
あっても、主の弟子にした行為には、キリストの救いが及ぶということです。このようなことが語られて
いる以上、私たちは、何を心に留めて伝道して行くべきでしょうか?それは、たとえ未信者であって
も、クリスチャンに対して純粋なアガペーの愛を向けてくれた人々には、主が報いて下さるのです
から、私たちがまず純粋な信仰を持って伝道すべきということです。というのは、私たちの純粋な行為が
未信者に向けられて行くとき、「その純な行為に未信者が反応し、純粋な行為で答えて行こうとする
思いが起される」からです。ですから、その為には、まず、クリスチャンである私たちが、世のギブ
&テイクの精神から離れ、純粋にアガペーの愛で信仰に生きていく必要があります。その時に、人々
からも純粋な愛の行為がクリスチャンに向けられる可能性があると言うことです。その報いを受け取る
未信者の方々は、おそらく無意識にアガペーの愛を注いで行くのでしょう。それは、私たちが純粋に
信じている姿を見て、彼らの心も純粋に動かされるからです。そのことは、「彼らも素直に全能主を
受けとめた」ということになりますから、全能主はイエス様の贖いを適用して、その者を天の御国に
入れて下さるのでしょう。何とありがたいことでしょうか。私たちが過去に行ってきた伝道の働き
は、一方的にアガペーの愛でやったことでしょうか。ここが大事なところです。すなわち、私たちがまず
「全能主を第一にして、全能主の義」を求めて、「まず、わたしよりも、父または母を愛する者は、
わたしにふさわしい者ではありません。・・・また、自分の十字架を負ってわたしに従ってこない
者は、わたしにふさわしい者ではありません」(マタイ10:37~38)と言われた、純な信仰を
働かせて行くことが大事なのです。それは、「自分自身を徹底的に否定し、自分の十字架を負って、
主に従って行く」なら、主は、こうした私たちの純な信仰が、未信者の純な行為に繋がって行く
ことを教えられ、幸いが友や両親、家族に受け継がれていくと言われたのです。ですから、決して純な
信仰は無駄にはなりません。私たちのこれまでの伝道の働きを振り返って見ると、たくさんの人たちが
教会に送られて来ましたが、信じてここに留まったクリスチャンは僅かです。しかし、私たちは、
目に見える形で、教会員として残っていないとダメだという感覚を持っていますが、そうではありま
せん。そこには、実が結ばれる時期があります。そのことを覚えて、私たちの信じるキリストを、
アガペーの愛(一方的な愛)で伝えて行こうではありませんか。それが、私たちの主に仕えて行く
伝道です。実は、主が結んで下さいます。
(結)どうか、たとえ一人でも、天に繋がるように、特に自分の家族や友人が天に繋がるように、
心を使って行こうではありませんか。たとえ私たちに対して迫害し、私たちを裏切るようなことを
する人であったとしても、何か繋がりが起こってくるかもしれません。だから、たとえそうであろうが、
私たちは一方的に愛を注いで行けば良いのです。もし、相手がそのアガペーの愛に少しでも心を動かし
てくれたなら、何かが起こります。また、回心戻しも有るでしょう。回心戻しをして、患難時代で
命を落とす人も起こってくるかもしれません。私たちは、これからそういう意識を持って主に仕え、
私たちの命をそのために用いて頂きましょう。そして、自分の周りにいる者たちに一方的なアガペーの
愛の心を注ぎ、その方々にも、天に繋がって行く幸いを味わって頂こうではありませんか。
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