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2022年8月28日

どこまでも全能主を信頼して行くこと


ヨハネの福音書 13:7


(起)ヨハネの福音書13章7節の「わたしのしていることは、今あなたには分からないが、後で

分かるようになります」
とイエス様が言われた御言葉から、「どこまでも全能主を信頼して行くこと」を

学んで
行きたいと思います。


(承)さて、13章1節を見ますと、「過越の祭の前に、イエスは、この世を去って、父の御許に

行くべき
時が、ついに来たことを知り、世にいるご自分の愛する者たちを極みまで愛された」とあるよう

に、ご自分が
十字架につけられる時が近いことを知ったイエス様は、弟子たち一人一人の足を洗い、

手拭いで拭き
始められました。そこで、ペテロは、足を主によって洗って貰うことは恐れ多い事と

思い、つい「主よ。
あなたが私の足を洗われるのですか。」「どうか私の足を決して洗わないで

下さい。」と言って拒絶したの
です。すると、イエス様は、「もしわたしが、あなたの足を洗わなかった

なら、あなたとわたしは、何の関わり
もなくなります」と言われたので、ペテロは、すかさず「足だけ

でなく、手も頭も洗ってください」と
珍粉漢粉(ちんぷんかんぷん)なことを言い出したのです。彼はイエス様が

為されたことの意味が、全く分かっていなかったからです。しかし、イエス様は、「わたしのして

いることは、今あなたには分からないが、
後で分かるようになります」と言われ、「あなたがたも

また、互いに足を洗い合いなさい」と言われて、弟
子達を(さと)されました。しかしながら、当時の

弟子達の内で、イエス様が語られたことや、為さ
れたことの真意を、本当に理解できた者はいません

でした。しかし、イエス様が言われたように、その時は
分からなくても、後になってはっきり見えて

くることはたくさんあるのです。


(転)例えば、16章もそうです。16章28節で、「わたしは父から出てこの世に来ましたが、

またこの世を去って、父の許に行きます」
とイエス様が言われた時、弟子たちは、「今、あなたは

あからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりませんでした。今、私たちは、あなたが

すべての事を知っておられ、誰もあなたにお尋ねする必要のないことが、分かりました。この事に

よって、私たちはあなたが、全能主
から来られた方であると信じます」と答えています。しかし、

私たちがここを読んで分からないのは、
「あからさまにお話しになった」とは何のことか、そして、

「誰もあなたにお尋ねする必要のないことが分かり
ました」と彼らがそのように言い得た根拠は、どの

言葉の中にあったのか?このところを読む限りでは、その根拠が見えてきません。ここで
イエス様が

語られた言葉は、初めて語られた訳ではなく、これまでに何度も同じ表現で語っておられます。例えば、

少し前の16章16節では「わたしは、父の所へ去って行くからです
」と語っておられます。しかし、

その時は、弟子たちは「私たちには、その言葉の意味が全く分からない」と、互いに言い合って

いました。それなのに、なぜ28節で再び同じことを語られた時には、「今、私たちは
あなたが、

全能主から来られた方であると信じます」と言い得たのか?全くの謎です。彼らは、実に唐突(とうとつ)答え

ています。ですから、その答えは、この箇所をいくら読んでも分かりません。もしかして、御使いが


突然教えたのかもしれません。しかし、少なくともここを読む限り、主はこれまでと同じ事を語ら

れていた
のでした。ただ、そんな中で一つ言えることは、弟子たちは、(のち)にイエス様の十字架と

復活を見たことによって、イエス様が語っておられた内容を、はっきりと理解したことは確かです。

イエス様は十字架に
かかって死なれましたが、その後、甦られた時に、弟子たちの前に御自身の姿を

現され、ご自分の死と
甦りの意味を弟子達にはっきりと示されました。その時に、弟子たちは、

罪人の贖いを主が
成し遂げて下さったことを理解しました。ですから、弟子達はこの時になって

「わたしは父から出てこの
世に来ましたが、またこの世を去って、父の許に行きます」ということの

意味を、ようやく、はっきりと分かって来たのです。即ち、イエス様が言われた通り、「全てのことは、

今は分からなくても、後で分かるようになる
ということでした。ですから、今日の私たちも、今は分から

なくとも、イエス様を信じた以上、最後まで信じて行くべきなのです。私たちにとって、幾ら聖書を

読んでも、分からないことばかりです。しかし、私たちは
全能主によって創られた被造物ですから、

全能主が全てを解き明かして下さる時まで、信じて待つのです
それが、私たち信じた者の生き様です。


(結) 
今回のED&RUMミッションを通しても、どこまでも全能主を信じることの大切さを学び

ました。
今回は、嵐の中に突っ込んで行くようなものでしたが、それでも行くように導かれました。

何故そのように導かれたのかは、後で分かりました。行く先々で全能主の助けがあり、私たちが行く

先々には、いつも晴れ間があったのです。ですから、自分の判断で決めるべきではありません。

信じた以上は、どこまでも全能主の判断に任せて行くべきです。そうすれば、必ず後ではっきりと

分かる時が来ます。
そして、分かった時には、「信じて来て良かった」と嬉しくなります。ところ

が、分からないからと言って、途中で去って行った者は、後で後悔するしかありません。私たちは、

信じた以上、信じたお方に最後まで懸けて行き
ましょう。私たちが、イエス様の救いを信じたの

なら、どんなことも、信じることが先です。「わたしのして
いることは、今あなたには分から

ないが、後で分かるようになります。」
ですから、私たちはどこまでも全能主を信頼して行こうでは

ありませんか。



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