2022年7月3日
『私たち罪人に注がれたアガペーの愛を実践する』
第Ⅰヨハネの手紙 5:1~5
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(起)第Ⅰヨハネ5章1~5節、「誰でも生んで下さった全能主を愛する者は、その御方から生まれた
者をも愛します(5:1)」という勧めを、「罪人に注がれた全能主のアガペーの愛を、私たちも兄弟
たちに実践して行くこと」を学んでいきたいと思います。
(承)さて、先日お話ししました通り、ヨハネの手紙に出てくる「愛」という単語は、全て「アガペー」
で記されています。この「アガペーの愛」とは、一方通行の愛であり、ギブ&テイクの愛ではありま
せん。即ち、「互いに愛し合う」戒め(3:23)とは、全能主の愛を受けたクリスチャンが、「絶対
主から生まれた者」に対して、見返りを求めず、全能主に対して表す、純粋な愛の表現なのです。
しかし、生まれながらの罪人にとって、「愛」という言葉には違和感があります。なぜなら、愛を人間
的にしか理解できず、ギブ&テイクの双方向の愛としか、考えられないからです。それは、今日の
生まれながらの人間は、みな平等意識の中で育てられて来ました。ですから、ギブ&テイクの愛は、
「相手に利益を与えたなら、自分も相手から利益を得る」ことと、当たり前のように考えて来たから
です。ですから、「愛を受けたなら、お返しをする」というのが、この世の礼儀となっていました。
しかし、日本人の心には、殿に対して生きる「忠義」という、「自己犠牲の精神」もありました。そこに
あるのは、一方通行の愛の精神です。この愛の精神は、クリスチャンにも通じる所があります。なぜ
なら、私たちは、イエス様の十字架の贖いによって、一方的に御霊の法則で生きる、新しい生き方の中に
入れられました。それは即ち、「全能主に委ね、全能主に信頼し、全能主に成し遂げてもらう」という
生き方です。この新しい生き方は、「全能主に対して生きて行く精神」であって、「自分に対して生きて
行く」生き方ではありません。それは、見返りを求めない、一方的なアガペーの愛を兄弟たちに注いで
行くことです。ヨハネの手紙の中には、そのことについて記されています。
(転)では、その新しい生き方を始め出すにはどうしたらいいのでしょうか。それは、「もう自分の為に
生きるのでは無く、全能主の為に生きる」という、純粋な生き方に心を替えることです。そして、
これを決めたのなら、勇気を持ってその心に切り替え、実践することを始め出すのです。それは、
「全能主の全能の力が、私たち信じる者にとって如何に偉大なものであるか(エペソ1:19)」を知る
生き方だからです。しかし、私たちは思い通りにならないと、このままではダメだと思って、その失敗を
取り戻そうとし、手っ取り早く自分に頼って遣ろうとします。しかし、「全能主の為に生きる」と
決めたのなら、自分に頼らず、どこまでも主に信頼して、自分が為せと言われることは全て行ない、
後は、全能主が成し遂げて下さるまで忍耐して待つことです。これが、クリスチャンの本来の信仰の
在り方です。そこから離れて自分でやろうとすると、自分を認めて貰うためにするようになります。
すると、また同じ失敗を繰り返すことになるのです。だから、未信者の頃からずっと続けてきた遣り
方は、自分の栄光を求める生き方だったということです。私たちは、この生き方を変えなければなりま
せん。自分が失敗をして怒られ、罪人だということを思い知らされたなら、「罪人の自分に頼っていても
ダメだ」という悟りと、「へりくだって全能主に頼って行こう」と、もう一度切り替え、「全能主に成し
遂げてもらう」と定めるのです。決して自分が成し遂げるのではありません。ここに私たちの大切な
信仰の秘訣があります。即ち、「全能主の為にする」ことは、「全能主に成し遂げて貰う」ことなの
です。
また、第Ⅰヨハネ5章4節では「全能主から生れた者は、世に勝利している」とありますが、どう
いうことかと言いますと、「全能主だけに頼って行くと切り替えた人」は、「世で認めてもらおう
とか」、「認めてもらわないとダメだ」という意識から離れ、世に捕われなくなるからです。もともと
罪人が認めてもらえる訳がありません。ですから、もし成し遂げた事があったとしても、それは全能主
が成して下さったことなのです。だから、「世に勝利している」とは、そういうことです。私たちは、
世に捕われない自由な心で、全能主のために精一杯生きて行くのです。即ち、純粋なアガペーの愛で
全能主に従い尽くして行くことです。この生き方こそ、信仰によって新しく歩み始めた者の信仰の法則
(ロマ3:28)による歩みです。
(結)どうか、はっきりと切り替えて、新しい生き方を始め出しましょう。この生き方に切り替える
のは、自分です。確かに、私たちの内には魔物がいますが、それは全能主が、あえてそうさせていたの
です。その理由は、「信仰によって全能主の方に心を向けるか、不信仰になって肉の声の方に心を
向けるか」その心を全能主が見るためでした。しかし、私たちは聖書を読んでいますので、何が御霊の
思いで、何が魔物の思いなのか、また、何が全能主の御心に適うことなのかは分かる筈です。それなら
ば、たとえ自分の心の底から、魔物の声が聞こえたとしても、弱気になってはいけません。私たちは、
全能主を信じたのです。ならば、「もう罪人の自分に頼ることは止めましょう。むしろ、信じる者に働く
全能主の力がどんなに素晴らしいか味わう者となりましょう。」このことが分かったなら、「全能主に
委ね、全能主に信頼し、全能主に成して頂く、信仰の法則によって生きる新しい生き方」に、はっきりと
切り替え、一方的なアガペーの愛で全能主に従い尽くして行こうではありませんか。
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